2011年11月30日

歩く。



 片道1時間半の編集室通い、というか散歩がてらの徒歩通いなのだけれど、それを始めて半年以上経つ。「毎日そんなに歩いているの、へー」と、感心されているふうで、実は呆れられていることに、ぼくはもう慣れてしまっている。相当暇なんだなあ、とでも言いたいのだろう、と。
 何が当たり前の常識で、ノーマルでないのは何なのか。そんなことを考えると、考えながら歩いていると、何も当たり前のことなんかないんじゃないのかなあ、と思ってしまう。さらには考えごとが深みにはまると足音はいつの間にかてくてくからとぼとぼになって、誰かに追い越されることもしばしばだったり。それで、考えすぎて頭の中の収拾がつかなくなったら、一旦空を見上げてみるのだ。それだけでリセットできるときもある。
 ほぼ毎日3時間歩く、頭の中に思いを巡らせてみる。見失っていること、気付きにくいことを取り戻す瞬間は、たいていそんなときにやってくるもの(ぼくの場合は)。
  


Posted by sousuke at 18:26Comments(0)暮らしのこと

2011年11月28日

身震い。



 やって良いことと悪いこと、その狭間。それをグレーゾーンといったりもするけれど、本来ならグレーということはなくて、白か黒、はっきり判別できるものではないのか。
 「社会のためになる事業」を後押しするための助成金、というものがある。たいていは、はじめの一歩から二歩三歩を助成することでその事業の自立をサポートするのが狙い、というはずなんだけれど、それがそうはならないということも少なくない。助成金に依存しやすい体質をつくってしまう、という悪影響もある。また、助成金にはそれぞれその異なる目的や条件がある。それこそ縦割り行政の弊害といえるかもしれないのだけれど、それはそれ決まりごとは決まりごと。しかし、その決まりごとを守らないケースもあるし、それが助成金を出す行政側の黙認や主導によって、行われたりもする(らしい)。
 例えば「ふるさと雇用再生特別基金事業」なるものがある。これは失業者の雇用促進のために設けられた制度だが、これを「まちづくり」とか「市街地の活性化」向けに変容させて実施する、とか。新規の失業者を雇用する等の条件さえクリアできていれば、まあそれは認容できる範囲なのかもしれないが、それすら粉飾では、はやり「助成金の不正受給じゃないの」と疑いの目を向けられるのも、当たり前というか。しかし、そんな行政から随意契約のように助成を受ける団体が、その辺にもあったりするらしい。それで、そもそもの事業目的はある種の「社会のため」というところにあるものだから、少々のことは目を瞑ろう、ということになるようだ。

 ぼく個人の見解としては「それって身内に甘いだけじゃないの」って感じなんだけど、ね。それでなんかブルブルしちゃってるわけ。  


Posted by sousuke at 23:17Comments(1)省みるべきこと

2011年11月27日

社会性。



 定職もなく携帯電話を持たない人物のことを「社会不適合者」と決めつけて良いのか、といきなり切迫した書き出し。これは、つい先日ぼくの知人が別の知人に対して吐き出してしまった「社会不適合者なんですねぇ」というまったく不適切で遺憾な言葉をヒントにしたというだけなのだけれど、現代という社会においては定職に裏付けられた安定収入に加え、携帯電話も社会性に密接に関わる最重要なアイテムと、周知されているということ、なのだろうか。
 そもそも携帯電話が普及する前は…、というような懐古主義に浸ることこそあまり意味がないとは思うのだけれど、それでもまあそういう考察もアリじゃないのかなあ、ということで、携帯電話が普及していない頃は今よりもっと「約束事」を大事に思っていたような気がする。それで、時間の使い方も上手だったんじゃないかな。それが、時間の使い方ばかりではなくコミュニケーションの相手に対しての配慮というか、「ちゃんと物事を伝えよう」とする気構えにも繋がっていたようにも思えるし。

 現代の社会性を象徴するアイテムである携帯電話によって、ぼくたちの社会性は失われているのだ。

 と言ってしまえるほどの自信は微塵もないのですが、そんな感じはするんだよなあ、と対して美味くもない酒を飲みながら、つぶやいてみたいなあ、と。

 それで、写真はいちいち携帯電話を撮ってもつまらなそうなので、「社会不適合」的なイメージカットを探して添付してみました。まあ本道ではなく「隙間」という感じ。  


Posted by sousuke at 09:23Comments(0)どうでも良いこと

2011年11月26日

誰の所有物か。



 薪ストーブの前でその炎をみながら考えたこと。「原発から飛び散った放射性物質は誰の所有物か」について。あるゴルフ場が東電を相手に訴訟を起こした。「芝生に付いた放射性物質はアンタ(東電)のものなんだから、ちゃんと責任とって始末しなさい」って感じ(なんだかきょうのぼく、池ナントカのようだぞ)。そうしたら、東電はこんなふうに反論した(つまり答弁書)。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」それで、飛び散った放射性物質は霧と同じ「無主物」だと。
 その裁判は終結し、ほぼ東電の主張が認められたようだ。しかし、そんな東電の主張を通して良いものだろうか。そうであれば、塩化ビニル類を焼却して発がん性物質として認められているダイオキシンを発生させた、とか、建物の老朽化等でアスベストが漏れ出ても、同じ理屈が通用するのではないか。まあ、震災という不可抗力の被害をアピールしたのかもしれないが、その震災以前に防潮堤や冷却設備等の不備には気付いていた、冷却システムが喪失した際のマニュアルにも不備があった、などいくつかの不備も露になってきているし。
 かといって、汚染された地域のそのすべての除染について責任が認められたら、東電は破滅するように思う。まあ、そういうときは国がなにかしら手を差し伸べるのかもしれない。それで、その心配、つまりは社会的な影響の大きさを裁判所が考慮したのだろうか。
 結局、その後の対応のまずさ、その責任これからも問われるだろう。それに加えて、これまで「安全神話」を唱えて国民を騙し続けたツケも払わされることになる、のか。

 薪が燃えるのを見ながら考えるには、少々重くて暗いテーマだった、ような。  


Posted by sousuke at 19:39Comments(0)省みるべきこと


 「この犬は良い犬だねえ、お利口だ」とよく言われる。そんなそうすけ(犬)と付き合って3年が過ぎた。くろ犬のコタをぼくの不注意で死なせてしまい、それで火葬でコタの亡骸が灰になるのを待つ間、保健所に亡くなったことの届出をしに行き、そのついでに保護されている犬をみせてもらい、そこで檻に入れられ呆然としていたのがそうすけだった。さすがにコタを亡くしたばかりで、すぐには飼えないとは思ったのだけれど、「処分されるかもしれない」と聞いて、「とりあえず処分する前に一度連絡をください」とぼくの電話番号を伝えたのだった。
 それから3日ほどして保健所から電話があった。「引き取る方がみつからなかったので今日(もしかしたら明日だったかもしれない)処分になりますが、どうしますか」「とりあえず、保健所に行ってその犬と会って飼うかどうか考えます」そんな感じで「考える」と言っておきながら既に飼うことは決めていたのだけれど、それでも亡くなったコタに遠慮があったりもして、また犬を死なせたぼくがまた犬を飼うことについて、心構えができていなかったというか、気持ちの整理をしている最中で、それが「考える」という言葉になったのだと思う。
 「この犬はあまりおすすめしませんね、吠え癖や咬み癖があるので。他の犬との折り合いも付けられないし。躾ができていないから」そう言われても気持ちはかわらず、呆然としたまま怯えていた犬の様子を見て、よりいっそう「この犬と付き合っていきたいなあ」と思ったのだった。それで、家に連れて帰るとその犬の突然の訪問にぼくの家族は驚きそれで喜んでくれた。うかうかしていたら家族の誰かがたちまち「そうすけ」と名付けてしまった。その頃ちょうど「ポニョ」が上映されていた、ということで。くろ犬のコタも連れて来たのはぼくで、ぼく以外の家族の誰かがあっけらかんと名付けたのだけれど、そういうのって案外口惜しいものだったりする。まあ、そんなこととは関係なく、見知らぬ場所に連れてこられたそうすけは来てすぐにすごく臭くて大きいうんちを廊下にした。このときは「先が思いやられるなあ」と、そう思ったりもした。

 本当は「犬と付き合う、ということ」について書こうとしたのだけれど、そうすけとの馴れ初め話になってしまいました。なので「付き合うこと」についてはまたいずれ書きたいと思います。  


2011年11月24日

抜く。



 蔵の改装やら、要らなくなったタンスの引き取りやら、屋根トタンの葺き替えやらのお手伝いをして、そこで生じた不要物(廃棄物ではなく)を利用して、わが西町編集室の作り込みをしているわけなのだけれど、とにかく面倒で嫌になっちゃうのが釘抜き。しかし、それをしないことには、釘がバリバリ打ち込まれている板切れや柱なんて、危険すぎて材料としては使えない。なので、「めんどくさいなあ~」と何度も同じひとり言を呟きながら(ツイートはしませんが)、それでせっせと釘抜きに精を出す。
 そんな古釘もけっこうたまってきたので、何かに使えないか検討中。できるだけ再利用したいんだけど、ね。古釘をまた使って打ち込む、とか。それがなかなか難しい(容易に曲がってしまうから)。
 
 というわけで、現在三種類の釘抜きを使って、せっせせっせと抜きまくっております。だからどーしたのよって言われたら、そりゃもうどーしようもないんですけど。  


Posted by sousuke at 12:50Comments(0)暮らしのこと

2011年11月21日

土蔵にどうぞ。



 篠ノ井の傷んだ土蔵を改修して「男の部屋」に仕立てる、という改修工事に取材を兼ねて参加させていただいているのだけれど、そこに「夢をみている男たち」とのお付き合いも同時に始まっている。で、団塊の世代ということで良いのかかわらないけれど、定年後の仕事の一線からは退いたそんな「男たち」はジョークや駄洒落が好きだったりする。

土蔵へどうぞ!
荷台が2台。
喜多方に来たかった。

 土蔵本体の施工より、そんな駄洒落への対応に苦慮したり…(苦笑)。現在、作業中の駄洒落を禁止するか、もしくは駄洒落対策費を計上するか、その辺を検討中…。  


2011年11月19日

階段と箪笥。



現在、関わらせてもらっている(妙な言い回しになってしまった)「土蔵大改修プロジェクト」の施主さんが、こちら方面を、というのはつまり長野市東町&西町を訪ねてきたので、某所で珈琲などを飲みながらしばし歓談した。気さくで話好き、というだけでなくてずいぶんと物知り。話が止め処もなく広がっていくし、それで果てしもなく延々と広がってしまい…。
 とにかく、その土蔵がどのように建て直されて、そこにどんな味付けがされるのか。それこそ「改築/改修」の醍醐味。それを「リノベ」というのかは知りませんが、「古い土蔵をリノベ」という言葉のやりとりは、物書きの端くれとしての僕の好みではないなあ。
 写真に写した「階段箪笥」。こういうものの存在感+役割(機能性)には脱帽させられっぱなしです。などと、かなりの頻度で着帽しているこの僕が言ってみたりする、そんな説得力…。
  


2011年11月18日

なんだろう。



 ゆっくり眠りたいのにそうしたいのに、それができない。深夜0時頃に床について眠りに落ち、その3時間後には目が覚めてしまった。「…しまった」と書いたのは、そうなることを望んでいないから、なのです。朝の6時に近くの温泉へ行く、つまりは朝風呂なんだけれど、それまでは目を覚まさず、眠りに落ちたままでいたかった。
 昨夜は、結婚式を挙げたばかりの人たちに会った。そんな人生というか暮しの転換期について、思いを及ばせたり少しは頭を悩ませたりすることがあって、それがとても羨ましかった。とはいえ、漫然とした暮らしぶりを悲観しているわけではないのだなあ、それぞれの暮しをぼくは尊いことと考えていたりするので。それが不幸な暮しであっても。
 そういうことを教えてくれたのは、そうすけ(犬)なのかもしれない。

 ちなみに写真の板きれ(そうすけが寝ている下の床、というか)は、まっちゃんが幼い頃にむっちゃんと一緒に使っていたタンスの、その引出しの背板を活用して床に敷いただけ、のものです。そういう「要らなくなってしまったもの」の再活用に、この頃のぼくははまりつつあります。でもって、ここで書いた「…しまった」は、望む望まないに関わらず「要らなくなってしまった」わけなので、そのように書いてみただけです。  


2011年11月11日

ねてる。


 添い寝したい、というのは嘘というか、イカシタ娘なんかとネンゴロになるなんて、そういうのは当然「うっしっし…」ってなものだけれど、それでコトが済んでしまえば「独りになりたいんだよなあ」などと、無理して腕枕なんぞをしながらもそんなことをおもう、身勝手なこのわたし。それだけ独り寝が大好きだというのに、この写真の寝顔には思わず頬を寄せてしまうのでした。まあ犬バカ、そうすけ偏愛しすぎというだけなんだけれど、ね。
 雨の日だからあまり外出できなくて、それで諦めの良いそうすけ(犬)はこんな感じで寝ています。添い寝したいけれど、起こすのはかわいそうなので諦めるよ。と、ずいぶん諦めがよくなったものだな、このわたしも。

 ちなみにこの地方(北信)では、「寝てる/ネテル」を「寝ってる/ネッテル」と言ったりしますね。わたしは都会で働いていた頃、知人から「昨日の日曜日、何してた?」 と訊かれ、それで「寝ってたよ、一日中」と答えたところ、「へー、何を錬ってたの、そんなに…」と誤解の上感心されてしまいました。そんなどうでも良いエピソード、ぜんぜんイケてないんだなあ、このわたしは。  


Posted by sousuke at 13:22Comments(0)

2011年11月08日

くろい犬のこと。




もし、なにか一つだけ願いごとが叶うのなら、
ぼくはくろい犬に戻ってきてくれるようにと、
ただそれだけを願う。

以前、ぼくはくろい犬を飼っていた。
白馬村で生まれ、ラブラドール系の雑種だったくろい犬は、
賢くてぼくの言うことを良くきいてくれた。
遠くに投げたボールもちゃんと拾ってきてくれた。
千曲川にボールを投げ入れても泳いで拾ってきた。
「のれ」と言うと素早く車の助手席に乗り、
「うしろ」と言うと即座に後部座席へと移り、
「おりて」でちゃんと車から出て、
それで、尻尾を振りまわして「まて」をした。

その夜は、畑の中の道をぼくとくろい犬の二人きりで歩いた。
畑の中だからリードを外し、それでくろい犬はいつもよりうれしそうだった。
くろい犬は草むらのにおいを好きなだけかいてから走り出した。
本当にうれしそうだった。

でも、くろい犬はしんでしまった。
畑の中の道を通り抜けてきた車にひかれて。

僕が生きてきたなかで、いちばん悲しくつらい思い出です。
くろい犬の思い出。   


2011年11月08日

ハンタイなのだ。



 痛んだ建物の躯体を揚屋によって補修し、それに加えて使い勝手と居心地を良くするべく、そういう「土蔵大改装」の手伝いをしながら、その模様をレポートしたいと思い、数日前からその現場に通っている。それで、作業途中の「一服するべ!」という声にに呼ばれ、やや渋さの残る甘柿と塩辛い漬物でお茶を頂いてると新聞、確か読売の昨日の朝刊だったと思うのだけれど、その二面に気になる記事があった。

 古い建物、それで構造上危険(壊れそう)なものは、行政がその撤去解体を指導する。場合によっては行政がその費用を立て替えて取り壊しを進める(後に所有者に請求する)。そんな条例を制定する、という動きがある。

 まず、思いついたのは古いポンコツ車を次々に解体へと追い込んでいった「エコカー補助金」なる景気浮揚策。「エコのためなんだから」というもっともらしい理由付けは、少し掘り下げてみるだけでインチキだとわかる(というか、ぼくはそう思っている)。で、この取り壊しを強要するかのような条例も、施行されれば、もしくはその気配がしただけでも、その関連業者はこれに飛びつき、これを最大限活用して営業するのではないのかなあと、ぼくは危惧してしまったのであった。
 まあ、そのあたりで「一服するべ!」休憩は終了して、また土蔵で作業に没頭。なんだかんだで、段取り良く進み、やるべきことをちゃんと済ませて、昨日の作業は終了。よかった、よかった。

 そこで、昨日の一句。「古いもの/大事にしようよ/この国の人たち」

 建物版「姨捨山」条例には、ぼくは「ハンタイ」です(商売のためにこういうくだらないアイデアを焚きつけてるのは誰なんだよ…)。  


Posted by sousuke at 10:24Comments(3)

2011年11月06日

考える。



 かんがえる。かんがるー、ではなく、肝蛙でもない。この冬、どのようにして「暖かさ」を手に入れるか、もしくは、「寒さ」をしのげば良いのか。
 その手段のひとつが、薪ストーブ。木が燃えるときの炎とそれが発する熱は、寒さの厳しい冬でも、暮しを大胆に暖めてくれる。けれど、オートマチックやデジタルに慣れ過ぎた人には向かない、というか、まるで仔犬でも育てるかのごとく、準備や躾、覚悟も要る。
 で、写真は近所の某所を暖め始めた薪ストーブ、その構造/原理から「ロケットストーブ」とか、「ウッドガス・ストーブ」と呼ばれたりもする代物。しかも、セルフビルド。しかし、ぼくの所有物ではない。なので、羨ましい、という、それだけ。
 薪が燃える炎を見て、考える、ことはそんなことぐらい、か。  


Posted by sousuke at 11:52Comments(2)

2011年11月04日

こけ、る。



 苔。「好きなのか」と訊かれればきっと「それほどでもないのになあ」と応えるだろう、そんな道端の苔。けれど、それをみつけたとき「おっ!」と思って、シャッターを切った。そのように苔のことが気になり始めたなんて、それこそ寄る歳の波…、ではなく年寄並にぼくの嗜好や感性が変化してきたということなのか。もちろん年寄になったことを悲しんだり哀れんだりしているわけではない。今までなかった感覚に目覚めることができて「これまでやり過ごしてきた歳月よ、サンキュー!」というだけである。それで、この苔にも「サンキュー」をおくろう。それで、また遭おう、苔よ…。  


Posted by sousuke at 18:52Comments(0)

2011年11月02日

歩み。



 最近気付いたのだけれど、ぼくの歩みはけっこう鈍い。というか、何か目的をもち、それも徒歩通勤で始業時間等に急かされて歩んでいるヒトビトに、ずいぶん追い抜かされてしまうのは、やっぱり通勤ではなく散歩なのだからだと思う。 しかも、健康維持やダイエットのために歩いているわけでもない。ただ歩いているときは、たいてい何か考えことをしている。考えたいことや考えなければならないことがあるなら、歩いてそれを考える。それで、思いついたことをブログなんかに書き込んでみようかなと思いつつ、あまり書き込んだりはしない。
 今朝の散歩では、途中の公園で折れた木の枝を拾った。長さ150センチほどで女性の二の腕ぐらいの太さ。それを右手で鷲掴みしたまま、約5KMの道程を歩いた。左側にそうすけ(犬)を連れて、わりと大きめのバックパックを前に抱え、右手には150センチの折れた木の枝…。どうしてそんなことになったのか、といえばそれはきっと雲があまり見当たらない「この空のせい」だろう。なんてこと考えながら、歩くのは意外と楽しいものですよ。  


Posted by sousuke at 09:21Comments(0)