2012年03月02日

欲望。


 ぼくは一時、自分の欲望はどこへ行き着くのか、と思ってそれを放ってみようとしたことがある。どんなふうに、どこまで放ったか、それについては赤裸々には書けないことも多いので、まあ一緒に飲む機会があったりすれば求められられなくても吐露してしまうけれど、いまここでそれをするのは差し控えます。
 結局、あまり良いことはなかったのかもしれないし、それはそれで経験として蓄積されたようにも思う。ただ、その経験がその後に生かせるような経験であったのか、については不明。ただ度胸という感性の鈍さを身につけたような気はする、幼稚だった頃のぼくはとても怖がりで小心者だったから(つまり、いまのぼくはそうではなくなった、ということ)。

 古い話を古くからの友人とすると「良く覚えているな」と感心されることもしばしばある。その分記憶できないこともある、名前や電話番号のような単純な情報のインプットが苦手だ。インプットはできてもアウトプットが行えない、というだけかもしれない。ぼくの脳はそういう仕組みだとそう理解している。興味があることはそれにまつわるストーリーごと記憶して、興味の対象にならない他人の名前などは覚えられない、そういう脳の仕組み。

 話題を欲望に戻す。それを放ってみようと思ったのは、結局のところ欲望をコントロールすることが人間として生物として正しいのか、を確かめてみたいと思ったからにすぎない。欲望をコントロールできるというのは思い込みに過ぎず、抑えられた欲望はまたどこか別のところで放出されるのではないかと。それなら、そのコントロールするという思い込みを捨てた方が良いんじゃないか。その欲望も人それぞれだから、自分のそれを自分なりに確認しておきたいとも考えていた。

 事業に成功して富を手に入れる。それで、その手に入れた富に見合った暮らしをすると、さらに恵まれた暮らしがしたい、と思うものなのか。それで、さらに多くの富を手に入れようとするのか。気になる異性とお付き合いをする。気になったわけではないけれど成り行きみたいなもので付き合ってしまうこともあるかもしれない。それで抱き合ってみたりすると、気持ち良かったりする。そんな快楽でさえ、さらに多くのもしくはより強い快楽を得ようと、そんな欲望も際限なく求めてしまうものなのか。

 経済活動においてのそれは際限ないように思えるけれど、それは個々の欲望というより欲望の連鎖のような感じがする。社会がいったんその方向へ走り出すと、もう止められないんじゃないか。というか、これまで経済の成長しか頭になかった人々は、さらなる経済成長がごく一部の利益にしかならないという予測が仮にできたとしても、自分がその一部であることを信じる(願う)だけ、とか。どこかのCEOの報酬が数十億円だとか、高級官僚が天下りを繰り返して何度も退職金を手に入れているとか、そんな話を聞くと、「そんなカネどうやって使うのだろうか」と、一個人に対しての憤りよりむしろ天下のまわりものとしてのカネの扱いの方が気になってしまう。まあ、それなりの経済を手に入れてしまうと、それを維持するためには出費もかさむということぐらいは分かるような気もするけれど。
 異性との付き合いから快楽を得ようとする欲望、この場合は欲求と言った方が良いのか、それについてはフィジカルとメンタルの両面から語ることになるのだけれど、まあ照れくさいという理由で止めておきます。ただ、恋愛という感情の動きは年齢や過去の経験によって激しく変わるものではないように思います。その嗜好は後天でなく先天性であるんじゃないか、と。いや、激変する場合もあるのかもしれないな、そういう経験がこのぼくになかった、というだけで。

 そんな自分の経験を振り返ることで、確認できてしまったことがありました。自分の欲望を抑制する、その経験がまるで欠けているということ。欲望を抑制すると結局は別のところに漏れ出す、というような仮説を立ててみたけれどそれが本当にそうなのか。この身をもって知ることになにか意味をみいだせるのか、どうか。

 この地蔵のような顔で達観できたら、心置きなく死ねるような気がする(そういう願望があるというわけではないので心配はご無用です)。  


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2012年02月29日

なくしたもの。


 めずらしく独りで呑んだ。その店には次々に人が入ってきて、いつの間にかカウンターまで一杯になっていた。トイレで懐かしい顔に出会った。設計会社を辞めてまったく異種の会社を親から引き継いだと聞いていた。握手を交わそうとしたら、「まだ洗っていなかった」と照れながら言って手を軽く洗い、それから「久しぶりです」と握手をした。相変わらず気さくで良い人だった。
 冷酒を流し込んでから、温めの燗酒を二本やってまた冷酒に戻った頃、隣の席に出版社の方が座った。それで、同業者ということでいくらか話した。共通の知人もいたが、本づくりについての考え方には交わるところはなかった。先日発行されたその出版社の雑誌には注目すべき地元企業が取り上げられていて、知人の会社も「エコな会社」などという、そんな言われ方で掲載された。その知人に頼まれ校正をして差し換えのための原稿も書いた。それで、仕上がった雑誌を見せてもらったけれど、残念ながら売れない雑誌であることはひと目で分かった。その出版社の方にそれを伝えなかったのは、遠慮したわけではなくてそんな特集を組んだことすら知らなかったからだ。その方は亡くしてしまった妻のことをひとしきり話した。「もともとは編集者ではなくてデザイナーだった」とそんなことを打ち明けた。
 帰り途、散歩中の知人とその母に逢った。あまりに酔っていたので何を話したか良くは覚えていない。なぜかその母と握手をしたような記憶が残っている。それで、「あまり呑んでばかりいたら駄目ですよ」というようなことを、言われたような記憶もある。そんな気遣いが有難いと思えるのは、酔ったおかげでで子ども並みの素直さを取り戻したから、だろう。けれど、このぼくを生んでくれたぼくにとって本当の母がまったく同じことを言ったとしたら、ぼくはきっと素直に聞いたりはしないはず。それを思ったら、すこしかなしい気持ちになった。
 帰宅後、よせば良いのにパソコンを起動させて何かを打ち込もうと試みるも、酔いが深くまわったせいでキーボードが上手く叩けずむかつく。それで、結局そのキーボードを壊してしまう。いま「P」のキーが毟り取られたパソコンでこのブログを入力しています。これから探してみます、失くした「P」を。
  


Posted by sousuke at 09:44Comments(2)省みるべきこと

2012年02月26日

それはないよ。

 
 「2月はいじけるための月じゃないの?」そんなことを誰かに言われた。その誰かは2月生まれではないのだろう、たぶん。だから、「いじける月」なんてつまらないことが言えるのだろう。僕は2月生まれなので、そんな僕が生まれた月が「いじける」ための月だとしたら、浮かばれないような気分になってしまう。その誰かは何月に生まれて、それでその生まれ月は「何のため」の月なのか、機会があればその誰かに尋ねてみようと思う。まあ、そんなこと尋ねたりはしないけどね、実際には。
 なにか良くないことが立て続けに起こってまいっちゃうんだよとか、悪い予感に限って的中しちゃうんだよなとか、自分にとっての都合の悪さをどう受け入れてそれでまたそのことにめげないようにして、転んでもまた立ち上がって歩き始めるには、「いじけてみることも必要なんだよ、たぶんね」と、その誰かは言いたかったに違いない。なので、僕は僕の生まれた月に、あともう僅かしか残っていないけれど、いじけることに費やそうかな、とも思っている。でも、どうすればいじけることができるのだろうか。いじけるってどういうことなのか、自らの到らなさを省みて、そのことに絶望にならない程度に失望すれば良いのだろうか。そんな取り留めのない想いが駆け巡ってしまう、ダメだな僕は、馬鹿でしかないんだな僕ってやつは。

 雪遊びが好きでたまらないそうすけ(犬)は何月生まれなのか、保健所から譲り受けたという事情のため生まれた月どころか年齢も不明。でも、なぜだか2月生まれのような気がするんだな。冬に犬が子犬を産むのかどうか、あまり聞いたことはないけれど、どうせわからないなら良いんじゃない、僕と同じ2月生まれってことで。  


Posted by sousuke at 22:09Comments(3)省みるべきこと

2012年02月11日

雲の上。



 ぼくの父親が死んで、4年余りが経った。当時、脳梗塞と腎臓の機能不全その腎臓も2つあるべきものが、約20年前に腎臓癌がみつかったことによってその1つが切除されていたから、片方の腎臓で血液の浄化をしていたことになるのだけれど、しかも、ぼくの父親はいつも過剰な塩分を摂取していて、つまり何にでも醤油をかけてしまうという塩辛い物好きで、味噌汁にさえ醤油をたっぷり注いで真っ黒くしてしまうほどだったから、片方しかない腎臓への負担は相当だったはずで、脳梗塞の障害さえなければ迷うことなく人工透析を行っていた、それくらいの状態であったというのに、ほぼ寝たきりで改善する見通しもなかったからそれを行わなかった。
 その日は担当医に呼ばれ、こんなことを告げられた。
「お父さんの腎臓の状況は日に日に悪化していて、このまま人工透析を継続的に行うことをしなければ、最悪の事態も避けられない状況です。今すぐとは言いませんが、そろそろそういうことになる可能性は高い、それを承知しておいてください」
 それを聞いて、ぼくはそんなものかとだけ思った。それから、父親の病室へ行きほぼ意識の無い父親に、
「また来るから」
と言って帰った。父親はぼうっとしたままで、それでもぼくの言葉には微かに反応していた、そのように思えた。
「ああ」
と言ったのか、それが、わかったよ、という感じに聞こえたから。

 そのあと、1時間もしないうちにぼくの携帯電話が鳴った。父が死んだという報せだった。あまりにあっけなさ過ぎで、少し呆然とした。それから、1時間ほど前までいたその病院に戻った。

 ぼくは幼い頃から青系の色が好きだった。紺は今でも良く身に着けている。ジーンズが穿きくたびれて濃いブルーから淡いブルーへと変わる様が好きだ。水色というか。それを子どもの頃のぼくが言う度に、父親は大抵こう返した。
「水に色はないよ、空色だ」

 空色。今日の空は一段と青いような気がする。 あの厚く重なった雲の上にある空の色。  


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2012年02月07日

かんがえたこと。



 去年まであった「N/エヌ」という長野の地域SNSが閉鎖する際、ぼくはこれまでこの地域/街で感じてきた不満を、その「N/エヌ」という場に投げかけた。その真意、その一部だけれど、誤解を招きかねないことも承知で、この「ナガブロ」という地域コミュニティの場に書き残す。

 「長野/ナガノ」というところは、例えば、山がたくさんあって滑るには最高の粉雪が降るとか、気持ちの良い温泉が豊富だとか、ただ景色がきれいで癒されるとか、そういう魅力がふんだんにある。そんな自然の魅力とは好対照といえるくらい、そこにいる(いた)人々の創り出したものには、魅力を感じにくい(もちろん私見です)。そんな私見は、まあ隣の芝生とかないものねだりというやつである可能性も否めないけれど、中庸を心掛けて自分が今住んでいる場所やそこにいる人々のアクションなどを考察しても、やはり同じような見方に至ってしまう。

 それはなぜか。実はまだその答えをみつけていないのだけれど、現時点での思いつきをさらに単純化して言い表すのであれば、つまりは「面倒くさがり屋が多い土地」なのではないか、と。すべての分野や業界がそうであるといいたいのではなくて、ある種の、地域をリードする分野、さらには文化や創造と密接な分野、それで多くの人を巻き込む、もしくは、見知らぬ他人の気を引くことを目的とするもの、何らかの目的を持ったコミュニティづくり、とか。具体的にはメディア関連や、行政の一部も含むコンサルティングのような事業。工程が完璧なまでに整った流れ作業ではなく、自ら考えて、それをカタチにする仕事、とも言い換えられるかも知れない。
 で、この土地に「面倒くさがり屋が多い」と言い出してみたのは、物理的もしくは作業的なことで根気がないというのではなくて、本来であれば「コミュニケーション」をもっとも大切に扱うよう、そこを要としたいはずなのに、それに対して億劫になってしまう、面倒くさがるということ。人を集める、ということは同時に揉めごとが生じやすくなるし、クレームや反対意見に応じることを求められたりもする。それを予防する最も有効な解決策として、そのような傾向が強まったのか、そこまでは推測しかねる。けれど、懇意ではない人にはあまり積極的に声掛けをしない、何か問題が起きても我慢してくれる顔見知りで集ってことを為す、そのようなことが目に付く。そんなことは、この「長野/ナガノ」に限ったことじゃないんじゃないの、と思う反面、その傾向はほかの地域より強いような気がする、というだけ。

 何度も、くどいほどピックアップしていること。長野市管理の公園には犬が入れない、という件。これも、何かの揉めごとを避けたいという、面倒くさがり屋の深層心理(?)が、犬の立ち入りを拒むというやり方に繋がったのではないか。公園という場所の意義や目的を正面から捉えれば、犬の散歩ができない公園ばかりで、その公園の多くは閑散としていて、ただ建設と管理にばかり費用が注ぎ込まれるという実態も、また、そのようなことに気付いても揉めごとを避けたがってばかりいて、変えることや変わることを本気で(ここですポイントは)求めたりしない面倒くさがり屋の人々。その性質はいつの間にか染み付いてしまって、意識することなく揉めごとを避けるようになっていく。その結果、無意識のままで新しいコミュニケーションの広がり止め、その可能性も潰す。この無意識が、こわいと心底思う。

 結局、何にも問題やトラブルが起こらないようなことしかやれない土壌がここにあるのだとしたら、やっぱりその辺から変えたいなあ、と。もちろん、ぼく一人では変えられっこないので、いろいろ揉めながら(苦笑)人々を巻き込もうと、現在それを画策中。

※当ブログを読んでくれて、ありがとうございます。どんな意見、もちろん反論でもうかがいたいので、ぜひコメントをお書き込みください。

 追記、
 アイデンティティ/自己同一性という意識も薄く、それを認識する場も少ない、のかも知れない。これは、ほぼ独り言(自分に向かっての)です。  


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2012年01月26日

現実ってなんだ。



 寒い朝が現実なのだとしたら、暖かい布団の中から出ずにいることは現実逃避か。ならば、それだから暖かい布団の中は現実でないの言うのだろうか~♪。数日前、久しぶりにカラオケに行った、近所の「まねきねこ」という店舗。そこで、ビール飲み放題コース、だと思ったら別にビール以外でもよかったらしいけれど、結局はビールばかりを中くらいのジョッキで5、6杯飲んだ。それで、必死になって歌った。どうして必死になったのかといえば、ぼくは本来カラオケが苦手で「カラオケを歌わなければならない」という現実から逃れないと、というか自己を喪失するくらいの開き直りができないとカラオケを歌うことができないからだった。しかも、その日はまったくの素面だったので。
 そんなふうに現実を見て、それで見ない振りしているのはどうやらぼくだけじゃないようですね。この国の人々、その大部分はどこかで直面している現実から逃げて、それでうまくいくはずもないのに、それでも逃げ切ろうとしている、そんな感じなんだなあ。それが誰かって、原発を許し消費税を上げようとしている政府の人々とか…、そういうつもりはありません。自問自答&自戒の念というだけです、あしからず、です。  


Posted by sousuke at 19:50Comments(0)省みるべきこと

2012年01月18日

居眠り。



 ぼくがパソコンに向かってこそこそやっていると、退屈なそうすけ(犬)は読書室のソファーでうとうと。つまり、ぼくはこそこそで、そうすけ(犬)はうとうと、ということです。まあ、どうでも良いですね、そんなこと。
 どうでも良くないこと、それはこのぼくにとってどうでも良くないことなのだけれど、またしても失くし物をしました。年を越してから今日で18日目、その間に失くしたものは既に9つ。財布、携帯、たくさんの鍵がついたキーホルダー、信用、そしてまた、財布、デジタルカメラ、本を2冊。あと、靴下とかも失くしていますが、それまで数えたら勘定しきれないので、すごすごと諦めています。しかし、財布と2冊の本とデジタルカメラは、ないままだと困る。すごく困っちゃう。
 先日、早朝6時に早起きして近くの温泉に行ったら、真っ裸でしりあいにばったり。「おー、新井さん、うちの店に鍵の束忘れてるよ。連絡先知らなかったからさ、こっちも困っちゃったよ」そうなんです、新井さんは行きつけの居酒屋でついつい飲みすぎ、鍵の束を置き忘れて帰ってしまったのでした。困った人だねえ、新井さんって人は(苦笑)。

 というわけで、本日の写真、ソファーでうとうと中のそうすけ(犬)はピンボケ状態。なぜかといえば、デジカメを失くして不慣れな携帯電話のちいさなレンズで撮ったから。しかし、今年になって失くした物の中には、取り返しがつかないものも含まれていた、ような…。まったく困った人だなあ、新井さんっていう人は。  


Posted by sousuke at 20:16Comments(0)省みるべきこと

2011年11月28日

身震い。



 やって良いことと悪いこと、その狭間。それをグレーゾーンといったりもするけれど、本来ならグレーということはなくて、白か黒、はっきり判別できるものではないのか。
 「社会のためになる事業」を後押しするための助成金、というものがある。たいていは、はじめの一歩から二歩三歩を助成することでその事業の自立をサポートするのが狙い、というはずなんだけれど、それがそうはならないということも少なくない。助成金に依存しやすい体質をつくってしまう、という悪影響もある。また、助成金にはそれぞれその異なる目的や条件がある。それこそ縦割り行政の弊害といえるかもしれないのだけれど、それはそれ決まりごとは決まりごと。しかし、その決まりごとを守らないケースもあるし、それが助成金を出す行政側の黙認や主導によって、行われたりもする(らしい)。
 例えば「ふるさと雇用再生特別基金事業」なるものがある。これは失業者の雇用促進のために設けられた制度だが、これを「まちづくり」とか「市街地の活性化」向けに変容させて実施する、とか。新規の失業者を雇用する等の条件さえクリアできていれば、まあそれは認容できる範囲なのかもしれないが、それすら粉飾では、はやり「助成金の不正受給じゃないの」と疑いの目を向けられるのも、当たり前というか。しかし、そんな行政から随意契約のように助成を受ける団体が、その辺にもあったりするらしい。それで、そもそもの事業目的はある種の「社会のため」というところにあるものだから、少々のことは目を瞑ろう、ということになるようだ。

 ぼく個人の見解としては「それって身内に甘いだけじゃないの」って感じなんだけど、ね。それでなんかブルブルしちゃってるわけ。  


Posted by sousuke at 23:17Comments(1)省みるべきこと

2011年11月26日

誰の所有物か。



 薪ストーブの前でその炎をみながら考えたこと。「原発から飛び散った放射性物質は誰の所有物か」について。あるゴルフ場が東電を相手に訴訟を起こした。「芝生に付いた放射性物質はアンタ(東電)のものなんだから、ちゃんと責任とって始末しなさい」って感じ(なんだかきょうのぼく、池ナントカのようだぞ)。そうしたら、東電はこんなふうに反論した(つまり答弁書)。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」それで、飛び散った放射性物質は霧と同じ「無主物」だと。
 その裁判は終結し、ほぼ東電の主張が認められたようだ。しかし、そんな東電の主張を通して良いものだろうか。そうであれば、塩化ビニル類を焼却して発がん性物質として認められているダイオキシンを発生させた、とか、建物の老朽化等でアスベストが漏れ出ても、同じ理屈が通用するのではないか。まあ、震災という不可抗力の被害をアピールしたのかもしれないが、その震災以前に防潮堤や冷却設備等の不備には気付いていた、冷却システムが喪失した際のマニュアルにも不備があった、などいくつかの不備も露になってきているし。
 かといって、汚染された地域のそのすべての除染について責任が認められたら、東電は破滅するように思う。まあ、そういうときは国がなにかしら手を差し伸べるのかもしれない。それで、その心配、つまりは社会的な影響の大きさを裁判所が考慮したのだろうか。
 結局、その後の対応のまずさ、その責任これからも問われるだろう。それに加えて、これまで「安全神話」を唱えて国民を騙し続けたツケも払わされることになる、のか。

 薪が燃えるのを見ながら考えるには、少々重くて暗いテーマだった、ような。  


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2010年06月27日

振り返る。



次女が中3になり、テスト勉強しているので、それで連立方程式の文章問題で躓いているもんだから、「教えたる」と言って余計なことをし、それでついつい口調が厳しくなって泣かせてしまった。実の娘だと遠慮なく憤りを表してしまうものなので、結局こういうことになりやすい。で、最期にぼくが自作した問題を解いてもらった。

問題:あなた(次女)とそうすけ(犬)の食費は1日1000円です。それで、あなたは1日に3食、そうすけは2食です。そのうえ、そうすけの1食分の食費はあなたのちょうど半分です。あなたとそうすけの1食分の食費はいくらでしょうか?

ぼくの中3はどんなものだったか、振り返ってみる。たいして、勉強もしないし得意でもなかった。バイクが好きで、夜中バイクを乗り回すことを「夜バイ」と言ったりしていた。学校はあまり好きでなかった。気分が悪くなくても保健室に行けば、早退することができた。体温計の先を指先で強く擦れば水銀がグッと伸び、それが37度を超えていれば「帰って休むように」と言われた。

そうすけと次女の食費は、意外と現実通りかもと思い、試算してみるとそんなことはないようだ。数学っていうものは、実生活で役に立つのか。そういう頭の使い方が役立つこともあるけれど、それができなくてもたいして困らないんじゃないか、そうも思う。
  


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2010年06月09日

処分に困る。



 放射性物質の取り扱い、特に原子力発電に関しては放射性廃棄物の処分が、未だに見通しこそ立っていない。廃棄物をさらに濃縮して燃料化するプルサーマルも、フランスなどにお願いしなければならないようだし、そのために用意したつもりの六ヶ所村(青森県)も、実用化どころか、安全性を含むその機能がほとんど明らかになっていない、いや、推進する側にとってはそんなことないのでしょうけど。
ニューモでしたっけ、地中深く埋めて管理しましょうというCM。結局、それしかなんだろうな、とは思う。ロシアなど、海に沈めてしまっていたところもあるようだけど、そういうことができないし、しないような社会なのだろうしニッポンは。
で、ここでただただ保管されている、いつか来るだろう処分される日まで待ち続けなければならないのは、PCBを抱くトランス達。なんか、さみしいなあ、と思う。これを作っていた当時は、こういうことになるなんて、想像していなかったんだろう、たいがいの人は。  


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2010年05月28日

目に見えないもの。



先日、道具としてのナイフについて書いてみたりしたけれど、やはりナイフを怖がる人って少なくないと思う。以前、何人かで道具の話をしていて、その際に持っていたナイフを取り出して見せたのだけれど、「危ないよ、仕舞ってよ」「なんで、そんなもの持ってるの」などと、こちらの予想に反して非難轟々だった。ナイフを出すべきシチュエーションじゃなかったといえばそうなんだけれど、そんなに怖がらなくてもと、正直思ったりもした。
しかし、目に見える恐怖以上に、目に見えない恐怖に怯える場合もけっこう多いのではないか。高圧電線などから生じている電磁波をはじめ、放射線、ダイオキシン、アスベスト、さまざまな薬害、ホルモン物質などなど。CO2のような炭酸ガスも、人間の生活を脅かしている、というし(諸説あれど)。
しかし、ね。たまに思うことがある。目に見えないものに怯えること、もしかしたら、それも刷り込まれただけのイメージなのかも知れない、と。
ぼくたちが生きていくうえで、ほんとうに考え直さなければいけないことは何か。やっぱり、ほんとうのことを突き詰めていくことが必要だと思うのです。高すぎる高圧電線と曇り空の中に埋まった太陽からの光を見て、そんなことを思ってみました。
  


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2010年05月26日

棘。



みんな、同じ感性や感情を持って生きているわけではないんだよ。そんなこと、当たり前だと思ってはいるけれど、それを理解していたとしても、自分の気持ち以外のものを認めることはできずに、傷つけたり傷ついたり。言い方がいけないのか、言った内容そのものなのか。言葉に棘があるのか、その表情が刺々しいのか、それとも存在自身が棘でしかないのか。
棘には棘の存在理由があるのだけれど、棘を棘としか思えないのも仕方のないことだと思う。
だって、ちくんとして痛いし。棘の中になにがあるのかなんて、あまり気にしないし。  


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2010年05月25日

渇き。



今日はそこそこの暑さ、ぼくにとっては我慢できないほどではないけれど、地表すれすれを歩く短足コーギーにとっては、照り返しがきつくてかなりしんどいはず。背中が黒毛で被われていればなおさら。太陽からの赤外線から紫外線まで、たっぷりの日光を吸収してしまうのだから。ふたりして、とぼとぼ歩くこと一時間半くらい。そうすけもそろそろ喉が渇いた頃だな、と思ったので、途中で拾ったゴミのカップに水を汲んであげました。そうすけは、それをうまそうに飲みました。
犬は汗をかかない。舌を出してはあはあ言うだけで、なんとか身体の熱を逃がそうとする。でも、汗をかかずに喉が渇くのって、どんな感じなのか。想像もつかない。  


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2010年05月20日

コタのこと。



犬というやつは、水の中に入ったり水をかけて洗われたりすると、必ずぶるぶるぶるっとやる。それで水しぶきが周囲に飛び散るものだから、こちらもまた水濡れする。コタはそこそこ大きなからだの持ち主だったので、近くでぶるぶるをやられてしまうと、けっこうな被害である。まあ、被害と言うほどのことでもないんだけれど。
そうした出来事がなんどかあったので、そのぶるぶるをこちらの指示に従って、やってもらえたらなあなどと、そんなことを思いついた。それで、結局なんと言って指示したら良いか、コタに伝わりやすいのか少し迷った。しかし、適当な言葉はなかなか思いつかない。
「コタ、ぶるぶる」と言ってみた。コタは少しの間困ったような様子だったけれど、三度くらい繰り返していったら、それでぼくもぶるぶると言いながら身震いしてみせたら、ぶるぶるぶるっとやってくれた。それからは、けっこううまくいった。
ぼくにぶるぶると言われて、ぶるぶるっとしてみせたコタ(写真)。  


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2010年05月19日

コタのこと。



ぼくには二人も娘がいて、それもぼくに似ずによくできた、オヤバカでなくて本当にそう思うし、だれもが認めるくらい、ダメ父に似てない娘だと心底思っている。そんな娘にぼくは十万円ものお金を借りてしまったことがある。一生懸命節約してお年玉とかを貯めたのに、それを当てにして借りてしまったのだ。それを思うと、やっぱりダメな父だなあと、少し落ち込んでしまうけれど、事実なので仕方ない。
借りた理由はコタの手術と入院代。食いしん坊だったコタが突然食べなくなって、それで水さえ口にしなくなった。あれこれ気にしてみると、そういやうんこさえしていない。そのうち、吐いたりしはじめた。もしや、と思ってお腹の辺りをぐりぐりとまさぐってみると、なにかゴルフボールのようなころんとした塊があった。食べたらいけないものを食べちゃったんだな、コタは。
普段からかなり食いしん坊なのは、レトリバーという犬はたいていそんなものだと言われたことがあったので、たぶん母親譲りなのだろう。一度、知人がコタのためにわざわざ新しいドックフードを買ってくれて、それをあげていたらいつまでも食べるんだよと言うから、見てみたらコタのお腹がぱんぱんで。もしかしたら、死ぬまで食べるような食いっぷり。それには何度唖然とさせられたことか。
そんなわけで、ふん詰まりになったコタは急遽手術で即入院。腹を切るところころと二つも石ころが出てきた。なんで、石なんか食うのよ、と十万以上の医療費を娘に借りてまでして払いながら、恨めしく思ったものでした。今でもやっぱりわからないな、石ころを食ったコタの気持ちは。  


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2010年05月18日

コタのこと。



レトリバーとコーギーの間に生まれたコタは、フレンドリーで物覚えの良い犬だった。オスワリとマテは即座に憶えてしまったし、ノレと言いつければ自動車の助手席に乗り、ウシロと言えばそこから後部座席へ移った。ダメと言うと我慢し、コラと言うとそれだけで怒られていることを知った。コラと言われて怒られていると思うと、大きくて黒い耳を情けなく垂らしてお詫びの表情をすることがほとんどだったけれど、たまに「うぅぅ~」と逆に怒ってみせたりもした。コラじゃなくて、コタと呼ばれればすぐやってきて、オイデでも口笛でも戻ってきた。
きっと、いろいろなことをもっと教え込むことで、なんでもできる犬になったかもしれない。けれど、そんなにできなくてもいいなあ、などとぼくは思っていた。ゴロンと言えば仰向けに転がりはするのに、オテはしない。なんのことだか知らなかったので、コタは。それは、ぼくがまったくオテを教えなかったから。犬が手(前足)をあずけるのは、従順になっている証だから、と言うことを聞いたこともあるけれど、まあオテをしなくてもコタは仔犬の頃からずうっと従順でなついていたし、それ以上に従順になることもないかなあ、とも思うし、オテぐらいはできなくても良いかなあ、と。
その代わりでもないけれど、コタはボール拾いがけっこう上手でしたよ。原っぱでも、海や川のような水の中でも、ぽーんと投げたボールを一目散で拾ってくる。川で遠くに投げすぎて、流れの急なところへと吸い込まれそうになったことがあって、そのときは本当に焦って、もう良いよ、戻れ戻ってくれ、と叫んだらボールを諦めて戻ってきてくれた。そんな言葉を教えたつもりはなかったのに、コタは本当に頭が良いなあ、と思ったのでした。  


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2010年05月17日

コタのこと。



ぼくは、以前コタという名の犬と一緒に暮らしていた。コタは白馬村で生まれたクロ犬で、父がコーギー母がレトリバーだった。レトリバーらしい顔としっかりとした胴回りに尻尾、それとコーギーらしい脚(すごく短いということ)で、一風変わった姿だけどとても愛らしいクロ犬だった。
そんなコタとは、いろいろなところに出掛けた。新宿の街を一緒に歩いたこともあるし、小さな山にも一緒に登ったこともある。川で泳ぐのが大好きだったので、泳げそうな川を見つけるとぼくはよくコタを離してあげた。コタはびゃしゃばしゃすいすいといつもうまく泳いだ。海でも波を乗り越えるようにしてうまく泳いだ。たまに海水を飲んだせいかで、泳いだ後下痢になることもあったけれど。
ぼくは、そんなコタのことが大好きなのでした。  


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2010年05月16日

いまここ、か。


昨晩、突然心臓がどきどきして、そんなこと今まではなかったなあと思いながら、ネットを徘徊していろいろな人のブログなどを覗いた。そのなかにあった「いまここ」。結局、よくわかっていないが「いま」と「ここ」に専念して生きるということか、違うだろうな。「過去」や「将来」がたとえ幻想だとしても、しかしさ、その幻想にとらわれて生きるのが人の性というか、人が人として生きる意味なのかもしれないと、そうも思う反面、「過去」や「将来」にとらわれるために、「いま」がなおざりになることは避けたいなあ、とも思うのでした。

人以外の生き物はやっぱり「いまここ」なんだろうし、生きるってことは「いまここ」そのものという気もするけど、ね。まあ、あまり深みにもはまる気がないので、このへんで「いまここ」のことを考えるのはやめにしよう。

「いま」と「ここ」とそして「ぼく」。
「過去」を悲しんだり「将来」に苦しんだりするばかりの「いま」は要らないと思うけれど。
生き方を考えて生きる生き物のとして人ってどうなんだろう。

さあ、「いまここ」よりリアルな日曜日が始まっているよ、さあて、と。
  


Posted by sousuke at 08:38Comments(0)省みるべきこと

2009年10月22日

大きな樹。

 そのお地蔵さんの近くには神社があって、そこには恐ろしく太い樹が。こんな人知れない(と言ったらご近所の方々に失礼だな)神社にこれほどの大木が、と驚かされた。いくら長生きしても100年ぐらい、イヌだと15~6年ぐらいなもんだけれど、この樹々はどれだけの時間を、ここでこうして過ごしたのだろうか。千曲川からわりと近いから、水浸しにも何度かあったかも知れん。たった数十年生きただけで、知ったかぶって悟ったふりをしてみても、こんな大木に見下ろされると、ちっぽけ過ぎる自分に気付かされるなあ。それでも、ちっぽけにはちっぽけなりの想いもある。
ちっぽけと、気づいたって、いいじゃない、人間なんだし。(みつをじゃないけど)


  


Posted by sousuke at 08:06Comments(0)省みるべきこと