2012年03月30日

蝉の声。


 看護師の妹に会ったので「近頃耳鳴りがするんだよ、蝉が鳴いているんだよ、耳の中で」と言ってみたら「ウツなんじゃない?」だって。そういうものなのか…、と思ったけれど、それだからといって特に改めることもないから、それならそれで良いやとも思った。もう46年以上もそれも結構乱暴に扱っているのだから、膝も肩も背中も、あっちもこっちも頭の中もガタが来るのはアタリマエ。それを受け入れる心構えだってある。耳の中に蝉がいないことが分かって、それだけでオーケーだからね。「人類はウツで滅びる」って誰かが言っていたような気もするな。まあいつかは滅びるのだから、その原因や理由なんで何でも良いな。
 
 母親に軽い(と思う)心の病があって、それに振り回された時期もあったけれど、そういうことにも慣れてしまった。この冬の間は辛かったようで、暗い顔をしてばかりいたけれど、それで鼻毛までぼうぼうで身だしなみに気を使うことすら難しいんだな、と思ったりもしたけれど、暖かくなるにつれ回復しているようでよかった。

 明日、長野市柳原の東部文化センターで「うまれる」という映画が上映されます。ぼくは、うまれたことを必然ではなく偶然だと思っていて、「まあやることやったってことだよな、自分で望んでうまれたわけでもないし」という感じなのだけれど、この映画は観るつもりでいます。それでもまあ「おかあさん、産んでくれてありがとう」とは思わないだろうな、たぶん。

「うまれる」
http://umareru.jp/

 その妹が夫婦喧嘩としたと言った。「図星のことを言うとすごく怒るんだよねえ」だって。そんなのアタリマエなので、「アタリマエじゃん」と言っておいた。ハゲでデブの人に「あなたハゲだね、しかもデブだ」と言って怒られなかったらそれは奇跡。ぼくなら怒らないけどね、ハゲでもデブでもないから。つまり「バカ」と言われて怒る奴は図星ってわけだな、ふむふむ。まあ、本人だけが気付いていないということも多いけどね、すべての不都合は他人事のような、いまどきの現実。  


Posted by sousuke at 08:28Comments(2)

2012年03月28日

ごめんくさい。




日々の中で生産することに満足することができたとして、
それだからなお満たされることのない隙間には、
自分にはないもの、例えば異性への憧れが入り込む。
酒、ギャンブル、セックス等々、
そんなものにもはまり込む。

隙間ができたのだとしたら、
その隙間が小さいうちに埋めれば良い。
身体の張りも解きほぐせば良いよ。
心の強張りまで解れるかも知れない。

好きな人/物にそれを伝える。
もしくはそれを伝えない。
好きだということが他人事であれば、
好きという想いすら喪失したことになる、のか。

考え過ぎることの罪もある。
けれど、考えずに達観したふりをする、
そんな罪人にはその自覚すらないから、
改めることも退くこともできないという不幸が生まれる。

原理原則としての盛者必衰。
それを潔く受け入れれば良いだけじゃないのか。
いつかは、それほど遠くないうちには死ぬのだから、
生き急いでもしかたないよ、と思う。
自らの手で死ぬこともないよ。
そのときが来たら、死ねば良いというだけ。

春の雪。
それを恨めしく思うこともない。
ないものはない。
ないからといって悲観することもない。
自分自身があるという現実。
その現実を実直に生きるのだ。
出た屁は引っ込められないのだから。

(おならをしたときの言い訳を考えてみました)  


Posted by sousuke at 11:39Comments(0)



 古い洗濯機で雑巾の脱水を試みるウノくん。上手くできず通りがかりの人に指南される。この古い洗濯機も近々老人保健施設に搬入される。「懐かしさ」を愉しんでもらえれば、と思う。

 誰もが疲弊しているように思えるし、誰もが困惑しているようにも思える。幸せなのは、本当にそうなのは誰一人いないんじゃないか、と。変化の速度が早すぎるんだな、たぶん。テクノロジーの進化に生身の人間は付いていけない。頭ではわかったふりもできるけれど、身体は悲鳴を上げている。いっそう、変化や進化に付いていくことを諦めてしまえば良い。

 急足で進んでいるように見えるけれど、その先に何があるのでしょうか。というより、何事にも言い訳めいた理由を貼り付けていくことで、自分で自分を騙すようなやり方になってしまうのなら、いまのそのスピードを落としてみたら、と思う。焦っても仕方ないんだよ、それを焦っている人に言ってしまう。そういう鈍感な言動が焦りをさらに増幅させるのだろう。焦りとはそういうもの。

 「最近のブログ、荒れてない?」と言われれば、思いあたることはいくつかある。もちろん迷いもある、というか迷いしかない、迷うしかない。とここまで書いて、ようやく眠くなったから寝ますね。以前は何か本などを読むことで眠気を誘っていたけれど、この頃は何かを書いてみたり…。
  





 ぼくは、これまで飲み屋の真似事のようなことを2度やってみたけれど、経営的には2度ともうまくいかなかった。というのは、商売としてそれをしようとしたわけではなく、ぼくにとって都合よく飲めるスペースがほしいというだけで飲み屋の真似事をしたから。失敗の理由はわりと明らか。それで、これから暖かくなったらまたそんなスペースを開こうと思っている。失敗は成功の轍であり、三度目の正直という言葉もあるしね。
 長野西町という場所に編集室を構えて、そこには小さなガレージや井戸のある中庭もあったりする。寒い冬はともかく、春夏秋であればけっこう心地よく過ごせそうだと思う。ガレージには古くて相当くたびれた木製の作業台があり、それこそビールや冷酒が似合いそうな佇まい。酔って座ると転がり落ちそうな椅子もいくつか用意した。音楽はまあ、そのうち誰かがターンテーブルを持ってくるだろう。自作のアンプも持ち込まれるに違いない、近藤さんのところにはテルミンがあるといっていたな。面倒なときは、PCに任せておけば良い。音楽が無くたってぼくは飲めるけれど、音楽がほしい人は各自で用意すれば良い。同様に飲みたいものも各自で用意していただこう。ぼくは自分で飲みたいものしない用意しないよ、暑い期間だけはドラフトのサーバーを置いておきたいけど、そうすると仕事もそっちのけになりそうだからやめておく。生ビールが飲みたいのなら、この周辺にいくらでも飲ませてくれる店はある。
 10年ぐらい前に閉じた権堂のすみれ堂というバーは、けっきょく他人まかせにしてしまい、ぼくは、ぼくの店の周りをぐるぐる飲み歩いただけだった。なので、今度こそぼくは、ぼくのために酒場をやる、それを貫こうと思う。自分が飲むための自分の飲み場。まあ、誰かが来たって良いさ。話があるなら話しても良いし、誰かの気配を感じながら独りで飲みたいのならそれはそれで良い。大勢で大騒ぎするのはなしだよ、正直いうとそういうのはあまり好きじゃない。ぶつぶつ独り言をいうか、その独り言が届くくらいの範囲に誰かが寄り添ってくれるか、それくらいがちょうど良い。
 近々、1000人単位の飲み会があるそうだけど、街の活性化を酒飲みの酔っ払いに任せて良いのでしょうかね。ぼくなら気の置けない数人の友人知人と、付かず離れずの距離感で酌み交わしたり、手酌で飲んだりするな。1000人もの飲み仲間は要らない、多すぎるよ。
 さて、それがいつ頃オープンするのははまったくの未定ですが、そのうちあそこのガレージの扉が開いて、犬一匹とひと一人が何かをはじめます。そういわけで、そのときはよろしく。

 この写真の人物は必ずそこに現れて、これほど以上の大きな笑顔で酔っ払ってくれるでしょう。それがいちばんの楽しみだったりして。  


Posted by sousuke at 17:18Comments(8)どうでも良いこと

2012年03月08日

やさしさ。


 つよくないとやさしくはなれないんだ、と思った。けれど、そのつよさ故にまったくやさしくない人だと誤解されてしまうことがある。仕方ない事だと思う。誤解することの多さと、誤解されることの多さ。そのいずれかを選ぶのだとしたら、ぼくは「誤解される」ことの方を選択するだろう。他者のそれは許す事ができる、から。
 小説を書くのなら「うれしかった」とか「さみしくなった」とか、心情をそのままの言葉で伝えようとするのは工夫がないというより、読む人の想像力に響かずただただ退屈になるから、絵を描くような描写が望ましい、らしい。そのようなことを川上弘美はそのエッセイの中で言っていた、と思う。隣の部屋にそうすけ(犬)がいるのはわかっているんだけれど、さっきまで聞こえていた寝息が聞こえなくなっている。以前撮った写真の中から、小布施の地蔵さんをみつけたから、それをこのブログに貼り付けたという、その理由。そこにはそれぞれに「さみしくなった」と「うれしかった」がある、ぼくはそれを思って書いたのだし。
 編集者は「伝える」ために働くのだろう。そして、伝えることでそこに生まれるはずの「共感」。それを生み出すことができないと諦めるとき、ぼくは編集者を諦めることになる。

 一通の手紙を頂いた。ぼくに伝えるためだけに書かれた手紙。まあ、手紙というものはそういものだから、とも思うけれど、自分と知人とまったく知らない人のために書くことに慣れたぼくにとって、その一通の手紙は忘れていた感覚を思い出させてくれた。自分の思いを真実のまま鷲掴みしてそれを真っ直ぐに投げ込む、そこにある、というか感じられるやさしさとつよさ。ぼくはまだまだ弱虫なんだな、ここで「弱虫」といってみたのは、その弱さの真相/深層を覗かれないようにするための小さな工夫でしかないけれど。

 長野市には東町と西町という文字通りに隣り合った地域があって、ぼくが居るところは西側なので「西町編集室」と名乗ってみただけなんですよ。それを「良い名前だね」と感心というか褒められてしまうと、恐縮するというか。いつの間にか、あのとき編集長だったあなたの年齢を今のぼくは越えていますが、ぼくは未だにあの頃となにも変わらない、駆け出しの編集者のままです。成長しないところがぼくの長所だと思うので、これからも駆け出しのまま突っ走りたい、と。お手紙、ありがとうございました。目に染みるこの頃の空の青さより、ぼくをうれしくさせてくれました。空閑さん、おかげで良い本がつくれそうですよ。  


Posted by sousuke at 04:50Comments(0)

2012年03月05日

この現実。


 何かが起こったというだけでは、そこに何の感情も生まれない。それを知り得て、それでやっと怒ったり喜んだりする。というのは、つまり何事も自分次第なんだということ、そういう理屈によって自分のマインドが操作できるのならば、それはそれで良いんじゃないかな、と思い続けてきた。自分にはその背後にもう一人の自分がいて、そのもう一人の自分の目線ばかりを気にして、立ち振る舞いをするものだから、なにかこう常に自分であって自分でないというような違和感がある、そんな日常から抜け出せない。
 そこから抜け出そうとするあまり、つまりは背後にいる自分を本来の自分を重ね一体化するために、アルコールを過度に摂取するのかもしれないなあ、と。自分を抑え込もうとするもう一人の自分からの解放。
 
 結局、このぼくは自分のことばかり考えているようです。亡くなった父。あまり健康ではない母。それぞれの事情を抱えて懸命に暮らしを守っている弟と妹とその家族。そしてぼくにもいるはずの家族。いつも寄り添ってくれているそうすけ(犬)。友人たちや知人の皆さん。そんな誰かと居たいときもあれば、誰かといる煩わしさに耐えられなくなったりと、きっと自意識が過剰なんだろうな。一人になってやっとわかる、その誰かの存在感。その誰かって、あなたのことかもしれない(と確信犯的に書いてみました)。

 最近、浮かれているのかもな、このぼくは。春の気配のせい、にしよう。  


Posted by sousuke at 21:30Comments(0)

2012年03月02日

欲望。


 ぼくは一時、自分の欲望はどこへ行き着くのか、と思ってそれを放ってみようとしたことがある。どんなふうに、どこまで放ったか、それについては赤裸々には書けないことも多いので、まあ一緒に飲む機会があったりすれば求められられなくても吐露してしまうけれど、いまここでそれをするのは差し控えます。
 結局、あまり良いことはなかったのかもしれないし、それはそれで経験として蓄積されたようにも思う。ただ、その経験がその後に生かせるような経験であったのか、については不明。ただ度胸という感性の鈍さを身につけたような気はする、幼稚だった頃のぼくはとても怖がりで小心者だったから(つまり、いまのぼくはそうではなくなった、ということ)。

 古い話を古くからの友人とすると「良く覚えているな」と感心されることもしばしばある。その分記憶できないこともある、名前や電話番号のような単純な情報のインプットが苦手だ。インプットはできてもアウトプットが行えない、というだけかもしれない。ぼくの脳はそういう仕組みだとそう理解している。興味があることはそれにまつわるストーリーごと記憶して、興味の対象にならない他人の名前などは覚えられない、そういう脳の仕組み。

 話題を欲望に戻す。それを放ってみようと思ったのは、結局のところ欲望をコントロールすることが人間として生物として正しいのか、を確かめてみたいと思ったからにすぎない。欲望をコントロールできるというのは思い込みに過ぎず、抑えられた欲望はまたどこか別のところで放出されるのではないかと。それなら、そのコントロールするという思い込みを捨てた方が良いんじゃないか。その欲望も人それぞれだから、自分のそれを自分なりに確認しておきたいとも考えていた。

 事業に成功して富を手に入れる。それで、その手に入れた富に見合った暮らしをすると、さらに恵まれた暮らしがしたい、と思うものなのか。それで、さらに多くの富を手に入れようとするのか。気になる異性とお付き合いをする。気になったわけではないけれど成り行きみたいなもので付き合ってしまうこともあるかもしれない。それで抱き合ってみたりすると、気持ち良かったりする。そんな快楽でさえ、さらに多くのもしくはより強い快楽を得ようと、そんな欲望も際限なく求めてしまうものなのか。

 経済活動においてのそれは際限ないように思えるけれど、それは個々の欲望というより欲望の連鎖のような感じがする。社会がいったんその方向へ走り出すと、もう止められないんじゃないか。というか、これまで経済の成長しか頭になかった人々は、さらなる経済成長がごく一部の利益にしかならないという予測が仮にできたとしても、自分がその一部であることを信じる(願う)だけ、とか。どこかのCEOの報酬が数十億円だとか、高級官僚が天下りを繰り返して何度も退職金を手に入れているとか、そんな話を聞くと、「そんなカネどうやって使うのだろうか」と、一個人に対しての憤りよりむしろ天下のまわりものとしてのカネの扱いの方が気になってしまう。まあ、それなりの経済を手に入れてしまうと、それを維持するためには出費もかさむということぐらいは分かるような気もするけれど。
 異性との付き合いから快楽を得ようとする欲望、この場合は欲求と言った方が良いのか、それについてはフィジカルとメンタルの両面から語ることになるのだけれど、まあ照れくさいという理由で止めておきます。ただ、恋愛という感情の動きは年齢や過去の経験によって激しく変わるものではないように思います。その嗜好は後天でなく先天性であるんじゃないか、と。いや、激変する場合もあるのかもしれないな、そういう経験がこのぼくになかった、というだけで。

 そんな自分の経験を振り返ることで、確認できてしまったことがありました。自分の欲望を抑制する、その経験がまるで欠けているということ。欲望を抑制すると結局は別のところに漏れ出す、というような仮説を立ててみたけれどそれが本当にそうなのか。この身をもって知ることになにか意味をみいだせるのか、どうか。

 この地蔵のような顔で達観できたら、心置きなく死ねるような気がする(そういう願望があるというわけではないので心配はご無用です)。  


Posted by sousuke at 06:18Comments(2)省みるべきこと