2012年02月16日

そこにある現実。



 先日のブログ「現実逃避」については、直にリアクションがあったりした。まあ、現実逃避というタイトルがいささか刺激的であったのは確信犯的なものだし、それで「新井さん(ぼくのこと)何かあったの?どうかしたの?」と言われ、それに対しては「なんで?(ぼくの口癖でもある)」と返すしかなく、それで「ブログでさあ…」ということになれば、「ああそうか、あれね。あれはねえ…」と、わざわざブログに書いたことの解説が始まるという有様。
 人はどれほど現実の中で生きられるのか。実際にその現実の中で生きちゃっているじゃないか、というご指摘はおっしゃるとおりなのだけれど、そういうことではなくて、現実の捉え方というか、直面している現実をまっすぐに見ることができるか、斜からなのか、そんなニュアンスで理解することもできるんじゃないのか、ということ。どこかで、自分にとって気持ちが良い部分や居心地が良いと思える部分、そのあたりを中心に切り取って、残りの現実を知らん振りする術を身につけ、まあそれが実社会・実生活を生きるというための術であることは肯定できるのだけれど、その知らん振り部分の現実が、知らぬ間に(それは知らん振りしてるからそうなるんだけれど)、己の身とか心とかを蝕んでいる、それを思う昨今のぼく。

 わざわざやや難解なフィロソフィーを気取った、そんな文章を寒い朝からすらすらと書く、そんなぼくには当然何かしらの意図があるので、これを読んでいる方々は気をつけた方が良いよ(笑)。そんなわけで、そうすけ(犬)はまだ眠っていて、隣の部屋からその静かな鼾が聞こえてくるおかげで、ぼくは寒い朝でもこんなにも無意味な文章を書くことができる。さて、これを読んだ人々から、また何らかのリアクションをいただくことができるのでしょうか。それが楽しみだったり。

 当ブログでは、校正もせず書きっ放しでアップしているという事情から、また、具体的な読者の想定がまったくないため、書いた本人がわかれば良いんだという構成になっており、言葉足らずで誤解を招く、
などと書きながら、その誤解というのは、読む側の経験則の影響でもあり、誤解≒解釈もしくは感じ方の違い(こういうとき横書きは便利だなあ)であることも多いので、その誤解を解くなんていう気はなかったりする。
 つまりはまあ「恋をすると相手の良いところしか見えない」「嫌いな人はただ気持ち悪く臭いだけ」「占いだけで幸せ/不幸せな気分になる」というようなことがあるように、現実がどうであれ、その受け止め方はその現実より受け手である人の心持ち次第なんだな、というだけのこと。
 「なんかラッキー」と思ったときの幸福感って、そのラッキーな現実以上でしょ、たいてい。そんなラッキーがあると良いですね、ぼくにも(あなたにも)。

 have a lucky day ! (Etcのダイス先生、この英語でOKですか?)  


2012年02月14日

現実逃避



 ときに、人は強烈なリアルに遭遇するとその現実から身体はともかく精神のみを逃避させることで、自らの精神が破綻しないようにする、のではないかと。つまり、強烈なリアルによって、そこから現実逃避が導き出されるという具合。耐え難い痛み、それは心身いずれの場合であっても、その現実に対して鈍感もしくは不感症のようになることで、耐性を持つというだけのことかもしれない。それがいわゆる「慣れ」というものなのか。
 それで、自分だけが鈍感だという自覚症状さえないままに、そんな自分だけが気付かず周囲がひいてしまう様は、ある種の残酷さを含むようにも思えるが、それすら自業自得なのだろう。「自分にとってはたわいもないこと」「どうでも良いと思えること」の範疇が、やたらに広範囲でそのせいで他者を傷つけることになったとしても、傷つく者にとっては傍若無人な振る舞いでしかないのだし。

 つまり、このぼくは乱暴者なのかデリケートすぎるのかという自問自答なのだけれど、まあ結論はとっくに出ていたりする。ぼくは残酷であり、繊細でもある(なんて自意識過剰も良いとこだ)。  


2012年01月29日

きのうは、



 きのうは、土曜日。
 ご近所さんから電話があり「さんぽ道読んだことある人が、そうすけ(犬)に逢ってみたいといっているんだよ」ということで、そのそうすけ(犬)を連れて雪の中散歩がてら、その電話の主のもとへ。そこで、そうすけ(犬)はそうすけそっくりの犬に出会う。柴犬の父とコーギーの母から生まれたその犬は、そうすけよりずうっと上品な顔立ちだった。
 その後、ゴミを片付けたり、食器棚を運んだり、単管とピケ足場を組みなおしたり、ビールを飲んだり、マーボーラーメンを食べたり、銭湯に行こうと思ったり、銭湯に行くのをあきらめたりしました。
 午後6時からの新年会、それは「日本みつばちを愛でる会」のような集まりだったのだけれど、そこに少し遅れて行き、芋焼酎のお湯割を3杯のみ小便をして、そこで抜け出し「スペクテイター」の編集者らが語る催しに行き、缶ビールを飲んで小便をして、それからその催しが休憩に入った隙に抜け出して、新年会に復帰したのでした。
 その後、わけありでスタジオ兼住居を引き払わなければならなくなったヤツのその場所での最期のライブに行き、その歌などは聴かずにワインと日本酒を飲み、そうしたら眠くなってしまったので帰りました。
 それで、寝る前に読もうとした本(写真)がみつからなかったので、あきらめて眠りました。さて、きのうのぼくは何度あきらめたりしたのか。まあ、今朝になって本がみつかったから、今日中に読んでしまいます。  


2012年01月17日

嘯く。



 これはまるで、合併直後の東ドイツいたようなローテク技師のようだぞ、という比喩には「あー、そうか。ボサボサ頭に毛糸の帽子じゃ、そんなふうに見えるのねえ」という新しい気づきがあったりもした。そんなぼくのいでたちより、白黒テレビとそれと同様に古かったりするオーディオや洗濯機、さらにはまったくアナログなデジタル表示の時計に囲まれてしまったおかげで、そんな旧東ドイツのアナログな技師に見えたんだなあ、とそれを独り思って、少し落胆。
 新聞に出たよ、という最初の自慢(?)は、少年野球のチームで新年の早朝に長野駅前の掃除をしたことだったと記憶している。まあ冬は雪があったりで野球の練習にはならずサッカーばかりしていたし、また監督やコーチだった大人は「新聞に載るんだぞ、しっかりやれ」と言って、子どもたち以上に緊張していた。「新聞に載るから、しっかりやれ」という理屈の正しさは、その当時は「そんなものなのね」と聞き流していたのに、この年齢になって「そういうものじゃないだろう」と思ってしまうのは、それこそ老化の一つの現象なのかもね、などと自分にいやみをいう始末。
 この新聞記事には、それなりの反響があるらしく、そういうわけでオチオチしていられないという状況が出来つつあるのかも知れません。オチオチにこそ、充実したヒトの営みの本質があるのにと、また嘯いてこのブログを締めくくろうかと。  


2011年12月19日

TEAM結成。



 本日のブログは写真とまったくの無関係です、そんなことは当ブログでは良くあることなので、愛読者の皆々様方においてはご承知のことと存じますが、そうとは知らずにお立ち寄り頂いた方々のために、予め申し上げておきます、そんなうわべだけの謝意です。

 最近、ご近所の某所であるTEAMが結成された。まだ20代の半ばであるリーダーは、まあふつうに寂しい感じの、それでも紺のベルベット調のパンツとPコートというお洒落とは言い難い微妙さ加減が粋というか、それでありがちな茶髪だったり。その野望はリトアニアに行くこと、その先の本当の野望は…。あ、そうそう最高速は80km/hで限界だというランクル60が愛車。それくらいかな、そのTEAMリーダーのセールスポイントは。
 で、サブリーダーは朝青龍とセサミストリートのキャラクターを混合させたような面持ちで、実家が電気店、その三代目。ぼくが初めてラジカセを買ったのがその電気店で、そのことを告げたら、すかさず「いまさら返品はなしですよぉ」と突っ込んでくる、そんなレスポンスの良さがウリ。身長は2メートルぐらい(そんな印象)。

 現在、このTEAMを売り出すべく、ダイナミックなプロジェクトを企画中。とりあえずは、「TEAMメンバーと長野市内の某所で薪ストーブを囲んで飲んで盛り上がろうぜ、の会」かな。そういうわけで、参加者募集中でーす。
※参加希望の方は、招待状の宛先(メールアドレス等)を記入したメッセージをお送りください、ね。

 追伸、「それで結局なんのTEAMなのよ?」については、また後日のブログでお知らせする予定。  


2011年12月13日

ゴーシュにて。



 長野駅から5分ぐらい歩いたところに「ゴーシュ」というカフェがある。もともと権堂にあった店で、ぼくはその当時常連だった。今日はその「ゴーシュ」でコーヒーを飲み、カレーを食べたりした。
 随分の間、ぼく以外のお客が居なくて、それでなかなか渋い話題で言葉のやりとりをした。そのうち「今日は暇だなあ」と言い出して、それでなんだか、そんな今日の暇がぼくのせいのような気がして、「ごめんねえ、ぼくが居座ったからかなあ」と気まずい雰囲気をさらに気まずくしてしまった。というほどのことでもなく、たいして気まずかったわけでもなく、ただ何時間かをその場所で過ごした。
 外側から見た「ゴーシュ」の店内は、整然としていて無機質な感じがした。「そういう感じがわたしの好みなので」と言っていたから、それはそれで良いのだろう。一見、無機質なようでも、入店してみるとそうでもないから。
 その人らしさが伝わってくる、と言ったら良いのか。あまり上手く表現できない、困ったものです。
cafe「ゴーシュ」http://gaucheblog.exblog.jp/

 追記、金網の向こうに見える列車を写したフォトを選びながら、どうして「ゴーシュ」のことを書いたのだろうか。その辺の事情はまったく不明です。なんか変だ、今日のぼく。  


2011年11月19日

階段と箪笥。



現在、関わらせてもらっている(妙な言い回しになってしまった)「土蔵大改修プロジェクト」の施主さんが、こちら方面を、というのはつまり長野市東町&西町を訪ねてきたので、某所で珈琲などを飲みながらしばし歓談した。気さくで話好き、というだけでなくてずいぶんと物知り。話が止め処もなく広がっていくし、それで果てしもなく延々と広がってしまい…。
 とにかく、その土蔵がどのように建て直されて、そこにどんな味付けがされるのか。それこそ「改築/改修」の醍醐味。それを「リノベ」というのかは知りませんが、「古い土蔵をリノベ」という言葉のやりとりは、物書きの端くれとしての僕の好みではないなあ。
 写真に写した「階段箪笥」。こういうものの存在感+役割(機能性)には脱帽させられっぱなしです。などと、かなりの頻度で着帽しているこの僕が言ってみたりする、そんな説得力…。
  


2011年11月18日

なんだろう。



 ゆっくり眠りたいのにそうしたいのに、それができない。深夜0時頃に床について眠りに落ち、その3時間後には目が覚めてしまった。「…しまった」と書いたのは、そうなることを望んでいないから、なのです。朝の6時に近くの温泉へ行く、つまりは朝風呂なんだけれど、それまでは目を覚まさず、眠りに落ちたままでいたかった。
 昨夜は、結婚式を挙げたばかりの人たちに会った。そんな人生というか暮しの転換期について、思いを及ばせたり少しは頭を悩ませたりすることがあって、それがとても羨ましかった。とはいえ、漫然とした暮らしぶりを悲観しているわけではないのだなあ、それぞれの暮しをぼくは尊いことと考えていたりするので。それが不幸な暮しであっても。
 そういうことを教えてくれたのは、そうすけ(犬)なのかもしれない。

 ちなみに写真の板きれ(そうすけが寝ている下の床、というか)は、まっちゃんが幼い頃にむっちゃんと一緒に使っていたタンスの、その引出しの背板を活用して床に敷いただけ、のものです。そういう「要らなくなってしまったもの」の再活用に、この頃のぼくははまりつつあります。でもって、ここで書いた「…しまった」は、望む望まないに関わらず「要らなくなってしまった」わけなので、そのように書いてみただけです。  




ぼくにとっては、アートというよりある種の表現と言った方がしっくりくるというか、それがアートであるのかないのか、という線引きをグレーゾーンに追いやろうとする意思とかではなく、未だ声に出せない僕自身のArt観の、そのピントとなるものをこれから探っていくためにも、Artも含まれるだろう「表現」という言い方に置き換えてみた方が、やっぱりしっくりくるというだけのこと。
しかし、これほど多くの表現者だちのパワーが集中するFLATFILEはどうなるのか、少し心配だけれど、とっても楽しみでもあります。  


2010年05月18日

ハルオはBメン。



ふりそでシスターズってだれよ? などという反応は当たり前だとして、三波春夫や村田英雄のご両人は、このぼくが言うまでもなく大御所中の大御所。そのお二人がご当地ソングを唄ってくれていたとは…。いやいや、男ムラタの「戸倉上山田音頭」は、ご当地ではおなじみだというではありませんか。小学生が踊る、とか。それは、失礼いたしました。しかし、三波春夫の「北野建設ばやし」は、ご存じない方も多いのでは。北野建設といえば、いまや全国区のゼネコンで、あのモーグルの上村選手をはじめ、多くのスポーツ選手をバックアップしている堂々たる大企業。しかし、50年近くも前に、三波春夫が唄っているなんて、ね。
もちろん針を落として聞いてみましたよ、「北野~来た来た~♪」なんていう名調子で、思わず踊りだしそうになる名曲。もし、聞いてみたいという人がいるなら、メッセージでもよこしてみてくださいな。
というか、三波春夫がBメン(Bボーイではないので、念のため)扱いというのが、スゴクね?  




すごいパワーなんだろうな、それで真っ直ぐ。好きです、この感じ。しかし、松本にあって長野にないものというか、長野という土壌に育ちにくいものが松本ですくすくと育つというか。文化と経済の関係は切り離せないものなんだろうけれど、経済ばかりが目的になるのも、なんだかなあ、と思う。文化も安全もエコも、すべては経済のため? そういうのって、良い悪いじゃなくてつまらないと思うな。
さあ、今日もたのしくいきましょう!(なんかムリヤリな鼓舞というか、きっと疲れてんだな僕は…)。  


2009年12月08日

you'd be so nice…

 土曜の夜、僕は一人で権堂にいた。ダイヤモンドタウンの向かいにあるラーメン屋「うまか亭」でジョッキビールを2杯、それからラーメン。スープを啜るとドンブリに書かれた文字が見えてきた。宝くじを買ってみよう、だと。数回しか買ったことがなく、この年末も買う気などまったくなかった宝くじ。ラーメン屋の店主にそれを言うと、「一枚だけでも買ってみたら」と、返された。しかし、一枚だけ買うことはないな、たぶん。
 それから、45歩ほど歩いて雑居ビルの2Fにあるバー「ミュージシャン」へ。ここにはぼくのボトルがある「ブラックニッカ」、それを大きな氷を一つだけ入れたグラスで飲んだ。途中、喉が渇いたので「ギネス」の黒いビールをオーダーした。それから、隣の夫婦らしきカップルからスコッチを頂き、バーボンも飲んだ。マスターが「何か聞くか」と聞いてくれたので、その曲をリクエストしてみた。最初にオランダの女性歌手がかなり個性的なアレンジで唄い、それには満足できなかった僕は「オリジナルぽいやつ」と言って、再びリクエストし直した。その次に流れた「you'd be so nice to come home to」は、とてもよくて、心に染みた。


 この曲名の和訳にはあるエピソードがあって、大橋巨泉だか誰かが当初間違って「帰ってくれれば良いのに」としたが、その後に誤りに気づいた、とか。なので「あなたのもとに帰れたら、うれしいのに」って感じの方が正しい和訳になるらしい。そういえば、そういう拒絶というより誘っているような歌声だと思う。代表的なヘレン・メリルのほかに、フランク・シナトラとか男性ボーカリストもカバーしているこの曲のことは、いろいろと謎な部分も多いよう。しかし、強めのアルコールにぴったりだな、このヘレンの歌声は。

で、これはJulie London が唄うその曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=fDgtwJ_-wRc  


2009年11月24日

トクした気分。

 熱い温泉にはいりにいこうと、それで、運転しながらみつけた虹。大きな虹だった、滲んでいたのがまたよかった。虹が滲んでって、偶然にせよだめだよそういうのは。しかしね、なぜか得をした気分になれる、虹をみつけると、ね。そういう類のものには、四葉のクローバーや流れ星などもあります。四葉のクローバーは一度もみつけたことありませんが、流れ星はたくさんみました、一時のぼくは夜空ばかり見上げていたもので。

あの娘、どこにいるのやら、星空の続く、あの街あたりか。作詞/山口洋子

虹をみつけてよろこんでいるぼくは、どうしてうれしいのかわからないのでした。まあ、得した気分のせいでしょう。しかし、虹をみつけるとどうして得した気分になるのでしょう。そういうのって、好きです。無意味なラッキーアイテムというか。


  


2009年11月20日

銀杏。

 よく行く公園には、銀杏が二本ある。しかし、銀杏というのは、なぜにこんな葉を付けるのか(そしてそれを落とすし)。不思議なカタチだなあ、と改めて思った (「ギンナン」でも「イチョウ」でも「銀杏」変換されますが、ここではもちろん「イチョウ」です)。
 そういえば、親父はよく銀杏(これはキンナンです)をとってきて、それを洗い(うんこの匂いがした)、それから天日で干して、それを冬の間作業場の廃油ストーブで炒ってよく食べていた。僕も、その銀杏が食べたくて作業場に出入りした。ときどきじゅっという廃油の焼ける音、きっと混じった水のせいだと思うけど、そんなのを聞きながら硬い外皮を齧り、中の薄皮まできれいに剥くと、緑色の焼けた銀杏〈ギンナン)が現れ…。
 僕にとって、銀杏〈ギンナン)というのはそういう食べ物です。茶碗蒸しに入っていても、それはそれでうれしいけれど。

 あ、そうそう。銀杏(イチョウ)って、「雌雄異株」なんだよね。公園にある二本は、どちらも実をつけていなかったが。残念な気もするけど、手がうんこ臭くならなくてすむから、良しとするか。


  


2009年11月11日

心の中は。

 確かにうれしそうではあるけれど、そんなことはないんだと思う。ただ、うれしそうに見えてしまうそんな顔つきになっただけ。それを飼い主なんかは都合よく感じて、無邪気に喜んだりするからイヌにとっては迷惑である。こらっとか怒れば悲しそうな顔をするし、首の周りをゴニョゴニョと撫で繰り回したりすれば、気持ちよさそうにもなる。イヌだってイヌなりに感情を表現するんだろうけど、ニンゲンが感じ取るイヌの感情が当たっているとは限らないだろうし。
 しかし、不意にこんな顔されちゃうと、こちらもにんまりしてしまいますな。笑顔っていいもんです、この顔がソウスケ(イヌ)にとっての笑顔かどうかは知らないけど。


  


2009年10月23日

ほっとする。

 海が苦手、潮風が嫌いだなんて、まさに信州人の真骨頂。あの蒸々した感じは、いくらサザン世代でもやっぱり好きにはなれんな。しかも、くせっ毛(できるだけ「天パー」とは言わないでほしいのよ)だから、潮風に吹かれると、まるで安物のカツラみたいに…。しかし、川はよいよ。爽やかだし、濁ったり匂ったりすることもあるけどね。でも、海岸より川辺の方がほっとする。波乗りをしない僕にとっては、あのザブンと打ち寄せる波にすら、嫌悪感を覚える。第一、うるさいし。川辺で静かに流れる水面を眺めたり、そのまま空に目線を移して、雲の動きを確かめたり、そういうボーっとできる一時が、僕にとって何の意味があるのか、それはわかりません。ただ、川が好きで、暇あれば度々向かうのが千曲川だったりするだけで。あの浅川には、ほぼ毎日足を運んでいますけどね。小川の脇に暮らしたいな、飲めるくらいきれいな水の近くに。あっ、そうそう。僕は少年の頃、千曲川の水飲んだことあります。クワガタ取りいって、あまりにも喉渇いたので。それでも、今も生きてます。思い出すと、おそろしいなあ。


  


2009年10月21日

いい顔。

 小布施ハイウエイオアシスには、いつの間にかドッグランができていて(以前はイヌ立ち入り禁止だった)、そこへの近道でいつも佇んでいるんだけど、そのお顔がなんとも言えないくらい「いいお顔」。ほっとするような、安らげると言うか…。「こんなお顔で死ねたら」というのは、まったく悪い冗談だけどね、それくらい良い表情。しかし、そう言いながら、手土産もなく写真だけパチリじゃ、お地蔵さんもしかめ面になっちまうかも。なんか、地蔵とか道祖神、小さい神社に興味が湧いてきたな。いにしえの時代、昔の人たちはどんな思いをもって建てたり創ったりしたのだろうか。そういうものを大切にしないから、現代人は幸せになれないんだよ、たぶん…。


  


2009年10月08日

祝杯。

 ネット界を彷徨っていたら、知人のHP&ブログに行き着いた。彼はフォトグラファーで、出身は関西辺りだが、現在は長野市に暮らしている。まあ、かれこれ知り合って10年くらいになるんじゃなかろうか。最後に会ってから、1年半ぐらい経つだろうか。そんな彼が、父親になっていた。誰と結ばれ、ほんとに結ばれちゃって、新しい命が生まれた、そういうわけなんだけど、いやいやまったく知らなかった。うーん、おめでたいじゃないかっ!ってわけで、これから、ひとりで酒を酌もう、いいちこのお湯割。いいちこは「下町のナポレオン」と言われているらしいが、誰が最初にそう言いやがったのかは、知りません。で、何かつまみがないかなと思い、冷蔵庫を開けてみたら、ありましたよ、スモークチーズが二つだけ。これ食っちゃうとまた、かみさんが怒るんだよな、「あっ、勝手に食べたな、コラッ」って。でも、大丈夫だ。言い訳はすでに用意してある、「賞味期限過ぎてだんだよう」で、逃げ切るつもりだ。しかし、ねえ。あの杉ちゃんが結婚して、子どもまで…。うーん、とにかくお幸せに。でもって、乾杯だ!