
この本のことをブログに書いたことがある、そんな記憶があるのだけれど、また書いてみたくなったので躊躇せず書きます。レース中の事故で重度の熱傷を負い、生死をさまよい、生還してもなお変わり果てた自らの姿と数々の障害、延々と続く痛みを伴う治療で、絶望の淵に立たされた太田哲也の自伝。実は、著者である太田さんとぼくは面識があるというか、ぼくはまったくの駆け出し編集者で、太田さんもプロレーサーとして活躍しはじめた頃、一緒に仕事をさせていただいたことがある、というだけなのだけれど。
ぼくはその頃、学研でスキー雑誌の編集に関わっていて、雪道を安全に走るスノードライブの講師役として太田さんを招き、岩手県安比高原にて撮影をしたのだった。それで、ぼくは太田さんをピックアップして東京から安比までの約600kmをワンボックスカーに乗せて連れて行く、その担当でもあった。また、取材班より一足早く帰京することになった太田さんを、安比から当時は東北新幹線の終点だった盛岡駅まで「シュミター」という英製ミッドシップ2シーターで送ったりもした。そのおかげで、太田さんとはいろいろとお話しすることができた。たとえば「スピードを怖いと思ったことはないなあ」「レースのためなら視力はいくらあっても良いので、レーシック手術を受けようと考えているんだよ」「いまはBMWのテストドライバーをしている」とか、もう20年以上も前のことで運転しながらの会話だから記憶は定かでないのだけれど、確かそんな感じだったと思う。
その太田さんがレース中事故にあったことをテレビのニュースで知った。真っ赤なフェラーリがスピンして激突しそれで燃え上がって行く映像の中に、あの太田さんがいるとはとても思えなかった。その太田さんが事故後のことについて本を書いた、それが「クラッシュ/絶望を希望に変える瞬間」という本です。
救いようも、救われようもない、そんな大きな損失があったとき、そういう状況に置かれた自分自身をどのように見つめて、捉えて、そして生きていくのか。生きていくためには希望を失わないことが必要なのであれば、また、希望を失うことこそが絶望なのであれば、それを取り戻すことが、生きていく力になるのだろうか。何度かこの本を読んでみたのに、そのことについては未だにわからないまま。残酷すぎる、と思ってしまう太田さんの経験したことからぼくは何を感じとったのか、それすら良くわからない。
表紙の焼け焦げたヘルメットの中に太田さんがいた。そして、その後に太田さんはまたクルマに乗り、レースにも関わったり、自身でレースカーにも乗った。結局、僕は何が言いたいのだろう。それをみつけるために、もう一度読もうかな。少し間を空けて、ゆっくり時間をかけて。
そういえば、東京から安比へ向かう途中でパーキングエリアに寄って休憩したとき、太田さんが「眠いからクルマの中で寝て待っているよ」と言ったのに、ぼくはエンジンを止めキーまで抜いてクルマから離れてしまった。だから、太田さんは寒くて眠れずただガタガタ震えてぼくが戻るのを待っていた、そんなこともあった。それでも「寒かったよ~」と言っただけで、嫌な顔すらしなかった。ぼくにとっては、そのことが太田さんにまつわるいちばんの思い出かも知れない。
the moment when despair turns into hope.
いまは絶望を感じてしまうかも知れないけれど、そのうちあなたにも希望がみえてくるよ、きっとね。
自分で「本をつくる」という、そんなことを企んでいると、やはり「別の人はどんな本をつくっているのかな~」と気になってしまうのは、それこそ人(「人間」と言い換えようかな)が比べたり比べられたりすることで、その存在というか、自らが置かれているポジションを確認して安心したがる、という精神構造によると考えることもできる。さらには、比べることでしか成り立たない、と思われるそんな価値観が現代社会を支配しつつあるのだとしたら…、などと、あえて小難しい感じを装ってこのブログを書き始めた意図は、秘密です。
さてさて、本題。そんな本の題は「UNIVERSAL SEX」。知る人しか知らない自称「身障芸人」のホーキング青山が、自らの生い立ちについて赤裸々に綴ったというだけの告白本で、テーマはずばり「身障者の性」。というものの、内容はそれほど「性」にこだわったものではなく、まあ日常としては切り離せないよね「性」や[性欲」や「セックス」のことも、という程度。で、この本を読むといつも思うのは、「やっぱり開き直っちゃうんだよな~、それが大事だよな~」ということ。どうにもならないようなハンディキャップでもその他の降りかかってきた不幸な出来事でも、それを乗り越えて次のステップへ歩を進めるには、「開き直っちゃう」のが最も効果的なやり方だと、それを再確認できる、というか。まあ、その「開き直り」にしても、他者に対して開き直るというより自らに開き直ってしまうというか、自分の現状を認めて受け入れることが、もしかしたらそんな「開き直り」なのかもしれないな、と。
こういう、やや真面目なことを書くと、一部の方々から「またつまらんブログを書きやがって」などといったクレームがくるけれど、それも甘んじて受け入れましょう。という、開き直りに似た、あきらめと悟り…。

中学、高校と布団の中の暗がりで本ばかり読んでいたから目が悪くなったのかも知れない。裸眼だとコンマ03ぐらいの視力しかないから、眼鏡を置いた場所さえ見逃すような始末。しかし、そんな裸眼で覗くぼやけた景色も嫌いではないから、酔ったついでにぼうっとしたこの世の中を傍観したりもする。
ここ数年は、気を失うように眠り込んでしまうことが多かったから、本など無くても眠りにつけたのだけれど、最近また本を持って布団にもぐり込む様になった。それで、このところはこの「本の雑誌・傑作選」が、ねむり薬の役目を果たしている。かれこれ、たいぶ長い間本格的な本づくりをしていないぼくが、この機にまた再び、というか、以前とは違うあたらしい試みによって本をつくろうとしているから、そういう機にこの本が手元にあるというのは、幸運だと思う。
「本が売れないのは、インターネットのせいだという俗説があるが、これこそ逃げ口上であって、こういうアホなことを口走る編集者が、本の魅力を消しているのだ」
そんなことを、今頃なら言うのではないかと思いながら読み進めた「編集者評論のすすめ/小林信彦」。逃げ口上のために、なにかの物言いをする、もっともらしく書いたりもする、その自己の心境にまでなかなか考えが及ばないのだろうが、その、考えの及ばなさにこそ、さまざまな不都合な事態(誤魔化した表現)は、繰り広げられそして繰り返される、という現実。
つまらんことはやめろ、それで、やめることもやめる。つまり、つまらなくないことをやれ、ということなんですよね。それができるかどうかという、そんな瀬戸際かも、ぼくの現在。