きのうは、土曜日。
ご近所さんから電話があり「さんぽ道読んだことある人が、そうすけ(犬)に逢ってみたいといっているんだよ」ということで、そのそうすけ(犬)を連れて雪の中散歩がてら、その電話の主のもとへ。そこで、そうすけ(犬)はそうすけそっくりの犬に出会う。柴犬の父とコーギーの母から生まれたその犬は、そうすけよりずうっと上品な顔立ちだった。
その後、ゴミを片付けたり、食器棚を運んだり、単管とピケ足場を組みなおしたり、ビールを飲んだり、マーボーラーメンを食べたり、銭湯に行こうと思ったり、銭湯に行くのをあきらめたりしました。
午後6時からの新年会、それは「日本みつばちを愛でる会」のような集まりだったのだけれど、そこに少し遅れて行き、芋焼酎のお湯割を3杯のみ小便をして、そこで抜け出し「スペクテイター」の編集者らが語る催しに行き、缶ビールを飲んで小便をして、それからその催しが休憩に入った隙に抜け出して、新年会に復帰したのでした。
その後、わけありでスタジオ兼住居を引き払わなければならなくなったヤツのその場所での最期のライブに行き、その歌などは聴かずにワインと日本酒を飲み、そうしたら眠くなってしまったので帰りました。
それで、寝る前に読もうとした本(写真)がみつからなかったので、あきらめて眠りました。さて、きのうのぼくは何度あきらめたりしたのか。まあ、今朝になって本がみつかったから、今日中に読んでしまいます。

この本のことをブログに書いたことがある、そんな記憶があるのだけれど、また書いてみたくなったので躊躇せず書きます。レース中の事故で重度の熱傷を負い、生死をさまよい、生還してもなお変わり果てた自らの姿と数々の障害、延々と続く痛みを伴う治療で、絶望の淵に立たされた太田哲也の自伝。実は、著者である太田さんとぼくは面識があるというか、ぼくはまったくの駆け出し編集者で、太田さんもプロレーサーとして活躍しはじめた頃、一緒に仕事をさせていただいたことがある、というだけなのだけれど。
ぼくはその頃、学研でスキー雑誌の編集に関わっていて、雪道を安全に走るスノードライブの講師役として太田さんを招き、岩手県安比高原にて撮影をしたのだった。それで、ぼくは太田さんをピックアップして東京から安比までの約600kmをワンボックスカーに乗せて連れて行く、その担当でもあった。また、取材班より一足早く帰京することになった太田さんを、安比から当時は東北新幹線の終点だった盛岡駅まで「シュミター」という英製ミッドシップ2シーターで送ったりもした。そのおかげで、太田さんとはいろいろとお話しすることができた。たとえば「スピードを怖いと思ったことはないなあ」「レースのためなら視力はいくらあっても良いので、レーシック手術を受けようと考えているんだよ」「いまはBMWのテストドライバーをしている」とか、もう20年以上も前のことで運転しながらの会話だから記憶は定かでないのだけれど、確かそんな感じだったと思う。
その太田さんがレース中事故にあったことをテレビのニュースで知った。真っ赤なフェラーリがスピンして激突しそれで燃え上がって行く映像の中に、あの太田さんがいるとはとても思えなかった。その太田さんが事故後のことについて本を書いた、それが「クラッシュ/絶望を希望に変える瞬間」という本です。
救いようも、救われようもない、そんな大きな損失があったとき、そういう状況に置かれた自分自身をどのように見つめて、捉えて、そして生きていくのか。生きていくためには希望を失わないことが必要なのであれば、また、希望を失うことこそが絶望なのであれば、それを取り戻すことが、生きていく力になるのだろうか。何度かこの本を読んでみたのに、そのことについては未だにわからないまま。残酷すぎる、と思ってしまう太田さんの経験したことからぼくは何を感じとったのか、それすら良くわからない。
表紙の焼け焦げたヘルメットの中に太田さんがいた。そして、その後に太田さんはまたクルマに乗り、レースにも関わったり、自身でレースカーにも乗った。結局、僕は何が言いたいのだろう。それをみつけるために、もう一度読もうかな。少し間を空けて、ゆっくり時間をかけて。
そういえば、東京から安比へ向かう途中でパーキングエリアに寄って休憩したとき、太田さんが「眠いからクルマの中で寝て待っているよ」と言ったのに、ぼくはエンジンを止めキーまで抜いてクルマから離れてしまった。だから、太田さんは寒くて眠れずただガタガタ震えてぼくが戻るのを待っていた、そんなこともあった。それでも「寒かったよ~」と言っただけで、嫌な顔すらしなかった。ぼくにとっては、そのことが太田さんにまつわるいちばんの思い出かも知れない。
the moment when despair turns into hope.
いまは絶望を感じてしまうかも知れないけれど、そのうちあなたにも希望がみえてくるよ、きっとね。

寒い朝が現実なのだとしたら、暖かい布団の中から出ずにいることは現実逃避か。ならば、それだから暖かい布団の中は現実でないの言うのだろうか~♪。数日前、久しぶりにカラオケに行った、近所の「まねきねこ」という店舗。そこで、ビール飲み放題コース、だと思ったら別にビール以外でもよかったらしいけれど、結局はビールばかりを中くらいのジョッキで5、6杯飲んだ。それで、必死になって歌った。どうして必死になったのかといえば、ぼくは本来カラオケが苦手で「カラオケを歌わなければならない」という現実から逃れないと、というか自己を喪失するくらいの開き直りができないとカラオケを歌うことができないからだった。しかも、その日はまったくの素面だったので。
そんなふうに現実を見て、それで見ない振りしているのはどうやらぼくだけじゃないようですね。この国の人々、その大部分はどこかで直面している現実から逃げて、それでうまくいくはずもないのに、それでも逃げ切ろうとしている、そんな感じなんだなあ。それが誰かって、原発を許し消費税を上げようとしている政府の人々とか…、そういうつもりはありません。自問自答&自戒の念というだけです、あしからず、です。
石油のような化石燃料を燃やすと二酸化炭素が出る、というか燃焼することで炭素と酸素が結合して二酸化炭素になり、それで熱エネルギーも出るという、そんなはずだった、確か…。それで、植物由来の炭素、たとえば薪とか木質ペレットであれば、燃焼して二酸化炭素ができても地球の環境にはさほど影響はないんだよという、「ゼロエミッション」なる理屈が罷り通っていて、石油や石炭のような地下資源が燃焼した際に生じた二酸化炭素については、地球温暖化の原因とされている、らしく。でもって、原子力は燃焼ではなく核分裂で膨大な熱エネルギーを生む、ということで、地下資源でも二酸化炭素を伴わないという、そんなわけで地球にやさしいエネルギーということになっていた(その説には多くの異論があるようですが)。
エネルギーにまつわる事情は、大きな経済的な動きとある種の独占的かつ一方的な都合に支配されているようなので、なかなか本質的な議論が出来にくいような気がする。石油を売りたい人、電気を売りたい人、ガスの人、太陽熱(光)の設備を売る人、など…、それぞれが「いちばんエコだぞ!」を声高にアピールする様は、まさに「ご都合主義だよなあ」としか思えなかったり。未来のことを本気で考えるならば、それぞれの自己都合なんか放り出さないとダメなんじゃないか…。
とは言ってもねえ、この寒さは身に染みるというわけで、ぼくは石油ストーブに依存して二酸化炭素を排出しながら暖をとっています。それが悪いことなのかどうか、その辺のことは良くわからないし、わからなくても良いと思うし、わかるわけないよとも思う。
写真のストーブは石油ストーブの代名詞ともいうべき「アラジン」の反射式ストーブ。いつもお世話になっている人に「もう20年以上も使っているお気に入りなんだけれど、欲しいならあげるよ」ということで、遠慮せずいただいた次第。これがけっこう燃料の消費が控えめで、それでぬくぬくと暖かい。良いものもらってしまったなあ、ありがとう池田さん。
自分で「本をつくる」という、そんなことを企んでいると、やはり「別の人はどんな本をつくっているのかな~」と気になってしまうのは、それこそ人(「人間」と言い換えようかな)が比べたり比べられたりすることで、その存在というか、自らが置かれているポジションを確認して安心したがる、という精神構造によると考えることもできる。さらには、比べることでしか成り立たない、と思われるそんな価値観が現代社会を支配しつつあるのだとしたら…、などと、あえて小難しい感じを装ってこのブログを書き始めた意図は、秘密です。
さてさて、本題。そんな本の題は「UNIVERSAL SEX」。知る人しか知らない自称「身障芸人」のホーキング青山が、自らの生い立ちについて赤裸々に綴ったというだけの告白本で、テーマはずばり「身障者の性」。というものの、内容はそれほど「性」にこだわったものではなく、まあ日常としては切り離せないよね「性」や[性欲」や「セックス」のことも、という程度。で、この本を読むといつも思うのは、「やっぱり開き直っちゃうんだよな~、それが大事だよな~」ということ。どうにもならないようなハンディキャップでもその他の降りかかってきた不幸な出来事でも、それを乗り越えて次のステップへ歩を進めるには、「開き直っちゃう」のが最も効果的なやり方だと、それを再確認できる、というか。まあ、その「開き直り」にしても、他者に対して開き直るというより自らに開き直ってしまうというか、自分の現状を認めて受け入れることが、もしかしたらそんな「開き直り」なのかもしれないな、と。
こういう、やや真面目なことを書くと、一部の方々から「またつまらんブログを書きやがって」などといったクレームがくるけれど、それも甘んじて受け入れましょう。という、開き直りに似た、あきらめと悟り…。

おりこうさんなのだ、このそうすけ(犬)は。それだからいつも「良い犬だねえ」と褒められている。まあ、確かにおりこうな良い犬だから、そう言われるのはいっこうに構わない。ただ、その挙句に「なのに、飼い主はバカだねえ」とくる、それもかなりの頻度で。つまり、そうすけ(犬)は良い犬でおりこう、その飼い主であるぼくは悪い人でバカという図式。おりこうとバカが1セットだとバランスが良くてなんとなくニュートラルな感じというわけで、そういう組み合わせになったのか、そのへんは不明。
そうすけ(犬)は屋内だとその存在感を消してしまうほどおとなしく、戸外に放たれれば犬らしく大いに走り回る。誰かに躾けられた、というより自分なりの理解でそのように振舞うことを善しとして、それでそうしているのだと思う。うむむ、つまりは、あれなんだな、そうそう。そうすけ(犬)を見習わないとならない、そんな飼い主っていうだけのこと。
犬にも爪の垢ってあるんでしょうかね、ないよな、たぶん。

中学、高校と布団の中の暗がりで本ばかり読んでいたから目が悪くなったのかも知れない。裸眼だとコンマ03ぐらいの視力しかないから、眼鏡を置いた場所さえ見逃すような始末。しかし、そんな裸眼で覗くぼやけた景色も嫌いではないから、酔ったついでにぼうっとしたこの世の中を傍観したりもする。
ここ数年は、気を失うように眠り込んでしまうことが多かったから、本など無くても眠りにつけたのだけれど、最近また本を持って布団にもぐり込む様になった。それで、このところはこの「本の雑誌・傑作選」が、ねむり薬の役目を果たしている。かれこれ、たいぶ長い間本格的な本づくりをしていないぼくが、この機にまた再び、というか、以前とは違うあたらしい試みによって本をつくろうとしているから、そういう機にこの本が手元にあるというのは、幸運だと思う。
「本が売れないのは、インターネットのせいだという俗説があるが、これこそ逃げ口上であって、こういうアホなことを口走る編集者が、本の魅力を消しているのだ」
そんなことを、今頃なら言うのではないかと思いながら読み進めた「編集者評論のすすめ/小林信彦」。逃げ口上のために、なにかの物言いをする、もっともらしく書いたりもする、その自己の心境にまでなかなか考えが及ばないのだろうが、その、考えの及ばなさにこそ、さまざまな不都合な事態(誤魔化した表現)は、繰り広げられそして繰り返される、という現実。
つまらんことはやめろ、それで、やめることもやめる。つまり、つまらなくないことをやれ、ということなんですよね。それができるかどうかという、そんな瀬戸際かも、ぼくの現在。

ぼくがパソコンに向かってこそこそやっていると、退屈なそうすけ(犬)は読書室のソファーでうとうと。つまり、ぼくはこそこそで、そうすけ(犬)はうとうと、ということです。まあ、どうでも良いですね、そんなこと。
どうでも良くないこと、それはこのぼくにとってどうでも良くないことなのだけれど、またしても失くし物をしました。年を越してから今日で18日目、その間に失くしたものは既に9つ。財布、携帯、たくさんの鍵がついたキーホルダー、信用、そしてまた、財布、デジタルカメラ、本を2冊。あと、靴下とかも失くしていますが、それまで数えたら勘定しきれないので、すごすごと諦めています。しかし、財布と2冊の本とデジタルカメラは、ないままだと困る。すごく困っちゃう。
先日、早朝6時に早起きして近くの温泉に行ったら、真っ裸でしりあいにばったり。「おー、新井さん、うちの店に鍵の束忘れてるよ。連絡先知らなかったからさ、こっちも困っちゃったよ」そうなんです、新井さんは行きつけの居酒屋でついつい飲みすぎ、鍵の束を置き忘れて帰ってしまったのでした。困った人だねえ、新井さんって人は(苦笑)。
というわけで、本日の写真、ソファーでうとうと中のそうすけ(犬)はピンボケ状態。なぜかといえば、デジカメを失くして不慣れな携帯電話のちいさなレンズで撮ったから。しかし、今年になって失くした物の中には、取り返しがつかないものも含まれていた、ような…。まったく困った人だなあ、新井さんっていう人は。
まあ、勘弁してください。一長一短を一丁一炭を言い換えたりして、それでご満悦ではありませんので。西町編集室では、とことんアナログ(アナログというと単に「古めかしい時代遅れのもの」と思われがちですが、実際はそうではないのです。詳しくは…、せっかくインターネットを使っているのですから、ご自分で検索してみてください)にこだわっているので、まあ、それも経費節減で自分でやれそうなことはやってみたらどうよ、という基本コンセプトの為せる業なのだけれど、暖房や湯沸し、温め直しは化石燃料や原発が含まれるかどうか分からないのだけれど、それを含んでいるだろう(もしくは、いた)電気に頼っている。まあ、現在のあまりに乱雑な状況を脱して、整理整頓が進めば自前のストーブを炭かなにかで点けてみたいとは思っていますが。そんなだらだらと長い前段のせいで、せっかく当ブログを読み始めた方々も、CMになってチャンネルを変えるがごとく、他のページへと写りゆく様は、それもまたおかし、なんていう相変わらずの脱線。というわけで、閑話休題。
写真の炭は、備長炭というものであって、その辺のホームセンターにある「発泡酒片手にバーベキューにうってつけの炭、1箱何キロ入か知らんがそれで980円」という、火がつけば炎を上げてすぐに燃え尽きてしまう、そんな黒い薪のような炭とはまったくの別物。この備長炭で鍋を煮て、うどんを煮て、それで湯を沸してお茶まで入れて、さらに暖房も…、それで備長炭のもつエネルギーを制覇したのはMrダイス(http://etc.naganoblog.jp/)という人物なのだけれど、というか、本日のブログに限らず僕の書くものはこの「けれど」という逆接の接続詞が多い、まあそれも仕方ないのだなあ、そんな逆接ばかりの時代だから。おっと、またまた、閑話休題。
うーん、備長炭はすごいんですよねえ、ぼくも備長炭を手に入れて、焼き鳥などを焼いて、それでビールを飲んだりして、その横に可愛いカノジョをはべらせたり。つまりは、備長炭で冷えた指先を暖めながら、そんなことをちょこっと思っただけなのでした。で、何が言いたかったかといえば、可愛いカノジョがほしいんだジョー、というだけなのです。そういうわけで、このブログすべてが閑話だった、というミステリアスな結末。最期まで読んでしまったあなたには、この地球の次に大きなサイズの「サンキュー」を贈ります、サンキュー。

これはまるで、合併直後の東ドイツいたようなローテク技師のようだぞ、という比喩には「あー、そうか。ボサボサ頭に毛糸の帽子じゃ、そんなふうに見えるのねえ」という新しい気づきがあったりもした。そんなぼくのいでたちより、白黒テレビとそれと同様に古かったりするオーディオや洗濯機、さらにはまったくアナログなデジタル表示の時計に囲まれてしまったおかげで、そんな旧東ドイツのアナログな技師に見えたんだなあ、とそれを独り思って、少し落胆。
新聞に出たよ、という最初の自慢(?)は、少年野球のチームで新年の早朝に長野駅前の掃除をしたことだったと記憶している。まあ冬は雪があったりで野球の練習にはならずサッカーばかりしていたし、また監督やコーチだった大人は「新聞に載るんだぞ、しっかりやれ」と言って、子どもたち以上に緊張していた。「新聞に載るから、しっかりやれ」という理屈の正しさは、その当時は「そんなものなのね」と聞き流していたのに、この年齢になって「そういうものじゃないだろう」と思ってしまうのは、それこそ老化の一つの現象なのかもね、などと自分にいやみをいう始末。
この新聞記事には、それなりの反響があるらしく、そういうわけでオチオチしていられないという状況が出来つつあるのかも知れません。オチオチにこそ、充実したヒトの営みの本質があるのにと、また嘯いてこのブログを締めくくろうかと。

本をつくる、と決めてからもうずいぶんと過ぎたような気がするけれど、それはそれで意味のある時間を過ごしたんだよなと言えるのか、というような自問自答。そんな折に、「就職が決まった」との報告を受けて、そのお礼にと日本みつばちの蜂蜜をもらった。これは熱い紅茶に入れたりして、大切に頂くことにしようと思う。とにかく、一歩前進は良いことです、そろそろぼくの方も前進しないとね。
何年も前に三谷映画の「マジックアワー」を劇場で観た。佐藤浩市のコメディはわりと楽しめたりで、それでまた「人生の見せ場/マジックアワー」について、そんな夢を失わないことの意味などを考えさせられたりもして、そんな感じだった。つまり、夕暮れ時こそ人生最高の見せ場という、そんなことですら日頃から「どんなふうに生きていきたいのだろうか、このぼくは」と考え込んでばかりいる者にとっては、無理矢理にでも納得したがっている、そのような寄り所としての「マジックアワー」なのか、そうなんだろうなあ、たぶん。
さて、ぼくにとってのマジックアワー、もう終わったのか、それとも…。センチメンタルは、中年男性の特性ですと言ったのは、このぼくです。そんなセンチメンタル(というジャーニー)。

ガソリンエンジンの燃費効率アップで1リッターで30kmも走るという、燃費がすこぶる良い自動車を「第3のエコカー」と呼んだりしているらしい。ハイブリッド車と電気自動車が、その前の世代で弟1と第2のエコカーということになる…、それは「ちがうんじゃないのかな」と感じなくもないのだけれど。燃費効率の良いエンジンこそ、最初のエコカー世代というべきじゃないのか、という意味で。
とはいえ、ここで登場するVWゴルフ・ディーゼルはエコカーなのか、それと認めてもらえるのか。ぼくは、こう考えていたりします。「そもそも自動車にエコという役割を持たせること自体がナンセンスなんだよな。エコカーなんていうものは、善良な犯罪者というくらいのもので(ちょっと言い過ぎか)、エコをアピールするための、そんな主目的のために造られた現代人の言い訳&都合の良い産物でしょ、その辺のエコなんとか、なんてものは」
そんなぼくの私的なヒガミはともかく、このVWゴルフには給油口が2つもあったりする。1つは通常の燃料である軽油(ディーゼル)用で、新たに設けた丸いキャップの方はてんぷら油(廃食用油)用。つまり、石油でなくても走るいわゆる燃料にてんぷら油も併用できる自動車ってわけ。ただ、てんぷら油は信州の寒さで固まったりするから、軽油も用意しておかないとならないわけで。
しかし、このVWゴルフ、車内を暖めるヒーターがほぼ効かないというドライバー&同乗者に信州の冬の厳しさを体験させてくれる、極寒仕様でもあるのでした。走行20万kmを超えてもまたまた調子良く走ってくれるけれど、小さな故障は数え切れないほどで。それを「仕方ないな」と諦めて乗る、そんなエコカーもどき…。

古いものばかり、そんな物ばかりが身の周りにある生活。快適かと問われれば、まったくそんなことはないのだけれど、それなのに楽しい、それで落ち着く。ニンゲンの欲望というか、現状で満足してしまわないその習性は、発展を導き出す原動力…。それに、逆行して古臭い不便を楽しむという、偏屈かげん。新しい年というが、2011が終わって2012が始まったというだけでは、わくわくしないようになってしまったものだから、元旦の今日は引きこもってただただゴロ寝しています。テレビも観ずに、というか、テレビのない生活が今年から始まった、という事情。なきゃないで、まったく困ったりしないんですよね、たいていの物は。それで、居なけりゃ居ないで困らないもんです、たいていの人だって。存在感の薄い人物に憧れるなあ、まあそもそもそんな感じだけれど。