
ぼくは一時、自分の欲望はどこへ行き着くのか、と思ってそれを放ってみようとしたことがある。どんなふうに、どこまで放ったか、それについては赤裸々には書けないことも多いので、まあ一緒に飲む機会があったりすれば求められられなくても吐露してしまうけれど、いまここでそれをするのは差し控えます。
結局、あまり良いことはなかったのかもしれないし、それはそれで経験として蓄積されたようにも思う。ただ、その経験がその後に生かせるような経験であったのか、については不明。ただ度胸という感性の鈍さを身につけたような気はする、幼稚だった頃のぼくはとても怖がりで小心者だったから(つまり、いまのぼくはそうではなくなった、ということ)。
古い話を古くからの友人とすると「良く覚えているな」と感心されることもしばしばある。その分記憶できないこともある、名前や電話番号のような単純な情報のインプットが苦手だ。インプットはできてもアウトプットが行えない、というだけかもしれない。ぼくの脳はそういう仕組みだとそう理解している。興味があることはそれにまつわるストーリーごと記憶して、興味の対象にならない他人の名前などは覚えられない、そういう脳の仕組み。
話題を欲望に戻す。それを放ってみようと思ったのは、結局のところ欲望をコントロールすることが人間として生物として正しいのか、を確かめてみたいと思ったからにすぎない。欲望をコントロールできるというのは思い込みに過ぎず、抑えられた欲望はまたどこか別のところで放出されるのではないかと。それなら、そのコントロールするという思い込みを捨てた方が良いんじゃないか。その欲望も人それぞれだから、自分のそれを自分なりに確認しておきたいとも考えていた。
事業に成功して富を手に入れる。それで、その手に入れた富に見合った暮らしをすると、さらに恵まれた暮らしがしたい、と思うものなのか。それで、さらに多くの富を手に入れようとするのか。気になる異性とお付き合いをする。気になったわけではないけれど成り行きみたいなもので付き合ってしまうこともあるかもしれない。それで抱き合ってみたりすると、気持ち良かったりする。そんな快楽でさえ、さらに多くのもしくはより強い快楽を得ようと、そんな欲望も際限なく求めてしまうものなのか。
経済活動においてのそれは際限ないように思えるけれど、それは個々の欲望というより欲望の連鎖のような感じがする。社会がいったんその方向へ走り出すと、もう止められないんじゃないか。というか、これまで経済の成長しか頭になかった人々は、さらなる経済成長がごく一部の利益にしかならないという予測が仮にできたとしても、自分がその一部であることを信じる(願う)だけ、とか。どこかのCEOの報酬が数十億円だとか、高級官僚が天下りを繰り返して何度も退職金を手に入れているとか、そんな話を聞くと、「そんなカネどうやって使うのだろうか」と、一個人に対しての憤りよりむしろ天下のまわりものとしてのカネの扱いの方が気になってしまう。まあ、それなりの経済を手に入れてしまうと、それを維持するためには出費もかさむということぐらいは分かるような気もするけれど。
異性との付き合いから快楽を得ようとする欲望、この場合は欲求と言った方が良いのか、それについてはフィジカルとメンタルの両面から語ることになるのだけれど、まあ照れくさいという理由で止めておきます。ただ、恋愛という感情の動きは年齢や過去の経験によって激しく変わるものではないように思います。その嗜好は後天でなく先天性であるんじゃないか、と。いや、激変する場合もあるのかもしれないな、そういう経験がこのぼくになかった、というだけで。
そんな自分の経験を振り返ることで、確認できてしまったことがありました。自分の欲望を抑制する、その経験がまるで欠けているということ。欲望を抑制すると結局は別のところに漏れ出す、というような仮説を立ててみたけれどそれが本当にそうなのか。この身をもって知ることになにか意味をみいだせるのか、どうか。
この地蔵のような顔で達観できたら、心置きなく死ねるような気がする(そういう願望があるというわけではないので心配はご無用です)。