2011年06月11日
パイを焼こう。

このブログは「何を書くのか」ということすら見定めずに、ただ漫然とキーボードを叩いた結果として生じたものであるだけなので、吐露すべき内容もない垂れ流しになりやすい傾向があります。その辺、ご了承ください。
みんなで幸せになれるか、と言ったらぼくはノーだと思う(本当はわからないんだけれど)。誰かの幸せは、また別の誰かの不幸によって成立する、とか、幸せの総量はもうすでに決まっているから、そんな一面があるとしたら、ある一部の人が余分な幸せを手に入れてしまうと、その皺寄せ、つまり幸福の足りない人ができてしまうのではないか、と。そもそも、先進国の満たされた生活なんてものは、地下資源や労働力を先進国の価値観からすればタダも同然で途上国から搾取し、その「格差」という担保によって成り立ってきた、と思うし。近頃、そんな先進国が軒並み景気の悪さを嘆いているのも、ただただ途上国の人たちが享受するべき幸福を、そこから我が物顔で取り上げにくくなったというだけのことじゃないか、と。途上国の人たちも気づいたんだよね、自分たちの財産もしくは幸福が知らぬ間に奪われていたことに。
などと言いながらも、犠牲のない幸福を諦めているわけではなかったりもする。幸福もしくは不幸の連鎖で、多くの人々が笑顔になったり涙を流したり、そういうことがよくあるということも知っているつもり。ただし、それにさえ表にとっての裏側、ポジを反転したネガが存在する、様な気がしてならない。それは、良いことがあっても手放しで喜ばないという、そういう奇妙な配慮のなせる技だと、自覚してはいる。
身近なところでもそのあたりの様相は同様だろう。郊外型大型店舗と自動車の普及で、街の商店街や電車やバスなどの公共交通機関が廃れている。「商店街の活性化」を叫ぶ声を良く聞くけれど、それはつまり「よそへ行った客を取り戻せ!」もしくは「よそから客を奪い取れ!」ということ。そういうことには触れずに、「商店街に来るお客さんが増えて、それでもっと儲かると良いねえ」とい言いながら相談しているのだとしたら、それじゃ呑気過ぎて望む結果にはならないと思う。商店街の実情としては、まったく呑気じゃないはずだけれど、ぼくからみれば呑気だと、そういうこと。こと経済行為に関しては、そういうように考えている。それが市場のサイズに対してごく小規模であれば、それはそれで、勝ち負けを問うことなく、その隙間で呑気なふりしてやっていけるだろうけれど。経済行為と幸福には密接な関連がある、ということが否定できれば、というか否定できにくいと考えているから、こういう考えになるんだろう、か。違う、か…。
ということを思い付きで書いてみて、それで読み返すと「なんか違うよな」「言いたいことがさっぱりだな」と感じてしまった。本心では、みんなで幸福を共有したいと思うし、せめてぼくの目に届く範囲くらいには、堪えきれないような不幸な出来事が起こってほしくない、と切実に思うし。けれど、実際の社会では、それを諦めるというか、その期待を膨らませずに、また失望があってもそこそこで抑えられるように、そういう考え方(生き方)になってしまっているのかもしれない。
そもそも呑気だということは、それはそれで悪いわけじゃない、と思う。みんながみんな、競争する社会の中でそれで誰かの足をすくってでも儲けようとする世の中でも、競うことに神経を使いながら死ぬまで時間を費やしたいとはく思わないし。そういう事情をわかっていながら、それでも呑気でいられる人が増えるのであれば、今よりは幾分マシで平和な世の中になる、と思うし。結局は諦めが肝心などと嘯いてみても、やっぱりその諦めが悪いというのが、ぼくの本性のようだ。
ぼくは父親から引き継いだはずの商売をやめることにして、やめた。やめたことでその分は誰か別の人の仕事になり、その分多く稼いでいる人がいる。だからといって、ぼくが自ら放り出した分を、今もうすでにあるパイから、自分の食べる分を誰かから横取りする、ようなことはしないで、新しいパイを焼こうと思っている。そういう考えの人が増えれば、もっと呑気で居られるんだろうな、こんな世の中でも、ね。
で、写真は東京のあるところで撮ったもの。あるところというのは、新宿から千駄ヶ谷へ抜ける辺り。東京という街は、人が多く、それでそんな多くの人たちの想いが錯綜していて、それだから過度に競争するし、まったくそうせず呑気でも居られる。東京と長野、そのどちらが本音で生きられるか、といえばやっぱり東京だろう。というか、本音で生きるってどういうことなのか、それすら不明。
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Posted by sousuke at 19:38│Comments(0)