かんがえたこと。
去年まであった「N/エヌ」という長野の地域SNSが閉鎖する際、ぼくはこれまでこの地域/街で感じてきた不満を、その「N/エヌ」という場に投げかけた。その真意、その一部だけれど、誤解を招きかねないことも承知で、この「ナガブロ」という地域コミュニティの場に書き残す。
「長野/ナガノ」というところは、例えば、山がたくさんあって滑るには最高の粉雪が降るとか、気持ちの良い温泉が豊富だとか、ただ景色がきれいで癒されるとか、そういう魅力がふんだんにある。そんな自然の魅力とは好対照といえるくらい、そこにいる(いた)人々の創り出したものには、魅力を感じにくい(もちろん私見です)。そんな私見は、まあ隣の芝生とかないものねだりというやつである可能性も否めないけれど、中庸を心掛けて自分が今住んでいる場所やそこにいる人々のアクションなどを考察しても、やはり同じような見方に至ってしまう。
それはなぜか。実はまだその答えをみつけていないのだけれど、現時点での思いつきをさらに単純化して言い表すのであれば、つまりは「面倒くさがり屋が多い土地」なのではないか、と。すべての分野や業界がそうであるといいたいのではなくて、ある種の、地域をリードする分野、さらには文化や創造と密接な分野、それで多くの人を巻き込む、もしくは、見知らぬ他人の気を引くことを目的とするもの、何らかの目的を持ったコミュニティづくり、とか。具体的にはメディア関連や、行政の一部も含むコンサルティングのような事業。工程が完璧なまでに整った流れ作業ではなく、自ら考えて、それをカタチにする仕事、とも言い換えられるかも知れない。
で、この土地に「面倒くさがり屋が多い」と言い出してみたのは、物理的もしくは作業的なことで根気がないというのではなくて、本来であれば「コミュニケーション」をもっとも大切に扱うよう、そこを要としたいはずなのに、それに対して億劫になってしまう、面倒くさがるということ。人を集める、ということは同時に揉めごとが生じやすくなるし、クレームや反対意見に応じることを求められたりもする。それを予防する最も有効な解決策として、そのような傾向が強まったのか、そこまでは推測しかねる。けれど、懇意ではない人にはあまり積極的に声掛けをしない、何か問題が起きても我慢してくれる顔見知りで集ってことを為す、そのようなことが目に付く。そんなことは、この「長野/ナガノ」に限ったことじゃないんじゃないの、と思う反面、その傾向はほかの地域より強いような気がする、というだけ。
何度も、くどいほどピックアップしていること。長野市管理の公園には犬が入れない、という件。これも、何かの揉めごとを避けたいという、面倒くさがり屋の深層心理(?)が、犬の立ち入りを拒むというやり方に繋がったのではないか。公園という場所の意義や目的を正面から捉えれば、犬の散歩ができない公園ばかりで、その公園の多くは閑散としていて、ただ建設と管理にばかり費用が注ぎ込まれるという実態も、また、そのようなことに気付いても揉めごとを避けたがってばかりいて、変えることや変わることを本気で(ここですポイントは)求めたりしない面倒くさがり屋の人々。その性質はいつの間にか染み付いてしまって、意識することなく揉めごとを避けるようになっていく。その結果、無意識のままで新しいコミュニケーションの広がり止め、その可能性も潰す。この無意識が、こわいと心底思う。
結局、何にも問題やトラブルが起こらないようなことしかやれない土壌がここにあるのだとしたら、やっぱりその辺から変えたいなあ、と。もちろん、ぼく一人では変えられっこないので、いろいろ揉めながら(苦笑)人々を巻き込もうと、現在それを画策中。
※当ブログを読んでくれて、ありがとうございます。どんな意見、もちろん反論でもうかがいたいので、ぜひコメントをお書き込みください。
追記、
アイデンティティ/自己同一性という意識も薄く、それを認識する場も少ない、のかも知れない。これは、ほぼ独り言(自分に向かっての)です。
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